柩雨夜 ―終わらぬ梅雨、願わくば君に愛と枷を―
 絵馬の伝承など、所詮は迷信。
 明日名には便宜上そう告げた。だが。

 術を施してある絵馬は残り数枚だ。兄の名と、藍――兄が生前慕った女の名をそこに記せば、兄からの呪縛は解ける。なぜなら、兄は絶対に藍を拒めないからだ。
 それでもまだ書けない。
 書けばその瞬間になにもかもが消えてしまう。だいたい、それを回避するために明日名をここに留まらせたのだ。それでは本末転倒にもほどがある。

 寺院をこのような状態にまで貶めたのは、他ならぬ僕自身だ。兄に逆らわず、その意のまま僕が滅ぼした。
 いや、兄の意など関係ない。僕が滅ぼしたいと望み、それさえも自分の中で兄のせいに仕立て上げた。無理やりにでも黄泉へ送り届ける方法を知っているにもかかわらず、僕は兄をこの世から切り離してしまえない。

 兄は僕への復讐を果たしている最中だ。
 僕もまた、兄への復讐を続けている最中。
 本当の罪人は、兄と僕、果たしてどちらなのか。

 明日名は傷つきやすい人だ。憎んだ相手を傷つけたいと願ったところで、本当に相手が傷ついたとき、彼女自身も深く傷ついてしまうに違いない。
 そんな明日名の内面を、奴はとうに見抜いている。だからこそ、自分と明日名の名を僕に書かせたがっている。
 それは兄にとってこの上ない復讐だ。同時に、どこか藍に似た面影を持つ明日名を藍の身代わりにしたがってもいる。つまりは、復讐と身代わりの両方が叶うということだ。

 絵馬に明日名の名を記す気は、日に日に薄れていく。薬湯を作って飲ませたあの日、ついにその気持ちは完全に消え失せた。
 明日名を守りたいからなのか、あるいは兄の思うままにさせたくないからなのか、自分でもよく分からない。分からずにいること自体、僕がどれほど醜悪な人間なのかを表しているようで、気が滅入った。
< 162 / 185 >

この作品をシェア

pagetop