柩雨夜 ―終わらぬ梅雨、願わくば君に愛と枷を―
     *
    ***
     *


 今日も、僕は待っている。
 もしかしたら、君は僕のことなんて早々に忘れて、幸せに暮らすのかもしれない。僕との間にできた子供も産んでくれないのかもしれない。他の男に見初められ、幸せな婚姻を結び、その男と一緒に生きていくのかもしれない。
 そんな不安に襲われては気がふれそうになる、その繰り返しだった。だが結局、君は僕の不安を、今日このときまで裏切り続けてくれた。

 長い、長い、永遠にも思える時間。
 君を迎えに行くために、僕はようやく足を動かし始める。

『明日名』

 寝台に横たわる君の、皺まみれの細い指。その手の中にはすでに絵馬はなく、君は目を閉じたまま、僕の声の方角を探してそろそろと首を動かす。
 狭い病室の中、壁にかけられた暦を一瞥した君は静かに微笑んだ。なにを笑っているのかすぐには分からなかったが、彼女の視線が次いで窓へ向いたことで合点がいく。

 そうか。
 君は、あえて今日を――僕らが一緒に過ごした〝六月二十五日〟を選んだのか。

『明日名。迎えに来たよ』

 声が震えてしまう。それを聞き入れたらしい明日名は、にっこりと微笑み、また静かに目を閉じた。
 小さな手が、ふわりと二重に霞んで見える。
 すっかりお婆さんになった身体、君が生き抜いた証であるそこから、君はゆっくりと抜け出て、そして。

『はい。遅くなってごめんなさい、尊さん』

 五十年前と変わらない、泣いているのか笑っているのか分からない君の顔。あの頃と同じ顔、同じ声。
 君のなにもかもが僕を潤し、満たし、溶かしていく。

 軽やかに鳴る鈴によく似た声ごと閉じ込めるように、ありったけの力を込め、僕は愛する人を抱き寄せた。
< 184 / 185 >

この作品をシェア

pagetop