記憶の欠片
再び巡り会う
湊音side
客足は、相変わらず静かなままだった。
「今日はもう来なさそうだな」
カウンターの向こうで、店長がそう言って手を振る。
「湊音、シフト終わるまで彼女達と一緒にいていいよ」
「ありがとうございます」
そう返してから、俺は二人のほうを見る。
黒瀬と、その友達――茉梨明日香。
水槽の光に照らされながら、三人でカウンターに並んで座る。
カフェの中は、時間がゆっくり流れているみたいだった。
「学校生活、どう?」
俺がそう聞くと、黒瀬は少し考えてから笑った。
「まだ慣れないことも多いけど……楽しい、かな」
「分かる。最初って疲れるよね」
茉梨が頷き、三人で他愛もない話を続ける。
授業のこと、先生のこと、クラスの雰囲気。
気づけば、時計の針は六時を回っていた。
「じゃ、俺あがるわ」
エプロンを外し、荷物をまとめる。
店の外に出ると、夕方の空気がひんやりと肌に触れた。
駅に着くと、茉梨が手を振る。
「じゃあ、私こっちだから!」
「また明日ね。」
そう言って、彼女は人混みの中へ消えていった。
残されたのは、俺と黒瀬の二人。
しばらく並んで歩いていると。
「ふぁ……。」
隣から小さなあくびが聞こえた。
黒瀬は眠そうに目を細めて、ふにゃっと笑う。
その瞬間。
胸の奥が、強く締め付けられた。
……知っている。
俺は、この表情を知っている。
笑っているのに。
どこか寂しそうで。
今にも泣き出しそうな顔。
記憶の奥底に沈んでいた景色が、ゆっくりと浮かび上がる。
───湊音くん───
震えた声。
俺の胸元に顔を埋め、涙を流す小さな彼女。
──私、これからどうしたらいいのかな───
雨の音が響いていた。
何も言えなかった。
ただ、泣き続ける彼女の背中に手を添えることしかできなかった。
それでも。
強がりな彼女は、涙を拭って笑った。
──ごめん───
──私、行かないと───
……雨音。
アスファルトに跳ねる水滴。
視界いっぱいに広がる灰色の空。
濡れた髪。
遠ざかっていく小さな背中。
その光景が、突然鮮明になる。
忘れていたはずの記憶が。
今になって、音を立てて蘇ってきた。
なぜ、今まで気づかなかった。
なぜ、名前を聞いた時に思い出せなかった。
「……黒瀬」
「ん?」
彼女が振り返る。
「少し寄り道してもいい?」
突然の言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。
「うん、いいよ」
疑うことなく頷く。
その優しさが、余計に胸を締め付けた。
いつもの帰り道とは違う方向へ歩く。
向かう先は、昔通っていた塾の近く。
俺と、彼女が何度も歩いた場所。
夕暮れの帰り道。
くだらない話をして。
笑い合って。
時には、何も話さず隣を歩いた。
もう何年も来ていなかった場所。
なのに、足は迷うことなく進んでいく。
「ここ……?」
黒瀬が辺りを見渡す。
「うん。」
俺は小さく頷く。
本当は聞きたかった。
覚えているか、と。
この道を。
この場所を。
俺のことを。
でも、言葉にはできなかった。
もし違ったら。
もし俺の勘違いだったら。
そう思うと、怖かった。
塾の前に立つ。
そして、俺は静かに彼女の横顔を見る。
何か思い出すか。
何か変化があるか。
必死に探してしまう。
けれど。
彼女はただ、不思議そうに辺りを眺めていた。
その姿を見て。
俺の中に、ある疑問が生まれる。
──本当に、忘れているのか?
でもその時の俺は、まだ知らなかった。
彼女が忘れたのは、俺との時間だけではなく。
自分自身の過去そのものだったことを。
「ごめん、やっぱり分かんないよな」
塾の前を離れようとした、その時だった。
ぽつり。
冷たい雫が、頬に落ちる。
「……雨だ」
空を見上げる。
灰色の雲が広がり、次第に雨粒が増えていく。
その瞬間。
隣にいた彼女の足が止まった。
「……っ」
「黒瀬?」
返事がない。
彼女は何かに怯えるように、目を見開いていた。
まるで、目の前にない何かを見ているようだった。
次の瞬間、彼女の身体がふらりと揺れる。
「黒瀬!」
慌てて手を伸ばす。
倒れる彼女を受け止めると、胸の奥が凍るようだった。
まただ。
あの日と同じ。
何もできなかった、あの日と。
俺は彼女を抱え、近くの公園へ向かった。
雨を避けるように、大きな木の下へ移動する。
濡れた髪。
苦しそうな表情。
眠っているだけなのに、今にも消えてしまいそうに見えた。
「……黒瀬」
返事はない。
ただ静かな寝息だけが聞こえる。
俺は木の幹にもたれながら、彼女が目を覚ますのを待つ。
もう二度と。
この場所で。
彼女があんな顔をするところを見たくない。
もう、辛い思いをしてほしくない。
そう願うことしか、今の俺にはできなかった。
客足は、相変わらず静かなままだった。
「今日はもう来なさそうだな」
カウンターの向こうで、店長がそう言って手を振る。
「湊音、シフト終わるまで彼女達と一緒にいていいよ」
「ありがとうございます」
そう返してから、俺は二人のほうを見る。
黒瀬と、その友達――茉梨明日香。
水槽の光に照らされながら、三人でカウンターに並んで座る。
カフェの中は、時間がゆっくり流れているみたいだった。
「学校生活、どう?」
俺がそう聞くと、黒瀬は少し考えてから笑った。
「まだ慣れないことも多いけど……楽しい、かな」
「分かる。最初って疲れるよね」
茉梨が頷き、三人で他愛もない話を続ける。
授業のこと、先生のこと、クラスの雰囲気。
気づけば、時計の針は六時を回っていた。
「じゃ、俺あがるわ」
エプロンを外し、荷物をまとめる。
店の外に出ると、夕方の空気がひんやりと肌に触れた。
駅に着くと、茉梨が手を振る。
「じゃあ、私こっちだから!」
「また明日ね。」
そう言って、彼女は人混みの中へ消えていった。
残されたのは、俺と黒瀬の二人。
しばらく並んで歩いていると。
「ふぁ……。」
隣から小さなあくびが聞こえた。
黒瀬は眠そうに目を細めて、ふにゃっと笑う。
その瞬間。
胸の奥が、強く締め付けられた。
……知っている。
俺は、この表情を知っている。
笑っているのに。
どこか寂しそうで。
今にも泣き出しそうな顔。
記憶の奥底に沈んでいた景色が、ゆっくりと浮かび上がる。
───湊音くん───
震えた声。
俺の胸元に顔を埋め、涙を流す小さな彼女。
──私、これからどうしたらいいのかな───
雨の音が響いていた。
何も言えなかった。
ただ、泣き続ける彼女の背中に手を添えることしかできなかった。
それでも。
強がりな彼女は、涙を拭って笑った。
──ごめん───
──私、行かないと───
……雨音。
アスファルトに跳ねる水滴。
視界いっぱいに広がる灰色の空。
濡れた髪。
遠ざかっていく小さな背中。
その光景が、突然鮮明になる。
忘れていたはずの記憶が。
今になって、音を立てて蘇ってきた。
なぜ、今まで気づかなかった。
なぜ、名前を聞いた時に思い出せなかった。
「……黒瀬」
「ん?」
彼女が振り返る。
「少し寄り道してもいい?」
突然の言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。
「うん、いいよ」
疑うことなく頷く。
その優しさが、余計に胸を締め付けた。
いつもの帰り道とは違う方向へ歩く。
向かう先は、昔通っていた塾の近く。
俺と、彼女が何度も歩いた場所。
夕暮れの帰り道。
くだらない話をして。
笑い合って。
時には、何も話さず隣を歩いた。
もう何年も来ていなかった場所。
なのに、足は迷うことなく進んでいく。
「ここ……?」
黒瀬が辺りを見渡す。
「うん。」
俺は小さく頷く。
本当は聞きたかった。
覚えているか、と。
この道を。
この場所を。
俺のことを。
でも、言葉にはできなかった。
もし違ったら。
もし俺の勘違いだったら。
そう思うと、怖かった。
塾の前に立つ。
そして、俺は静かに彼女の横顔を見る。
何か思い出すか。
何か変化があるか。
必死に探してしまう。
けれど。
彼女はただ、不思議そうに辺りを眺めていた。
その姿を見て。
俺の中に、ある疑問が生まれる。
──本当に、忘れているのか?
でもその時の俺は、まだ知らなかった。
彼女が忘れたのは、俺との時間だけではなく。
自分自身の過去そのものだったことを。
「ごめん、やっぱり分かんないよな」
塾の前を離れようとした、その時だった。
ぽつり。
冷たい雫が、頬に落ちる。
「……雨だ」
空を見上げる。
灰色の雲が広がり、次第に雨粒が増えていく。
その瞬間。
隣にいた彼女の足が止まった。
「……っ」
「黒瀬?」
返事がない。
彼女は何かに怯えるように、目を見開いていた。
まるで、目の前にない何かを見ているようだった。
次の瞬間、彼女の身体がふらりと揺れる。
「黒瀬!」
慌てて手を伸ばす。
倒れる彼女を受け止めると、胸の奥が凍るようだった。
まただ。
あの日と同じ。
何もできなかった、あの日と。
俺は彼女を抱え、近くの公園へ向かった。
雨を避けるように、大きな木の下へ移動する。
濡れた髪。
苦しそうな表情。
眠っているだけなのに、今にも消えてしまいそうに見えた。
「……黒瀬」
返事はない。
ただ静かな寝息だけが聞こえる。
俺は木の幹にもたれながら、彼女が目を覚ますのを待つ。
もう二度と。
この場所で。
彼女があんな顔をするところを見たくない。
もう、辛い思いをしてほしくない。
そう願うことしか、今の俺にはできなかった。