藤堂彬の誤算だらけの結婚生活
 世間知らずでやや無謀なところはあるが彼女は決して愚かではない。失敗は繰り返さないだろうという一定の信頼ができ、彬は心の平穏を取り戻したというわけだ。
「本当、藤堂先生、顔色よくなったよね。前は青白くて……本当にヒューマロイドみたいだったけど、今は人間に見える。奥さんのご飯が美味しいとか? いいなあ、僕も結婚したいなあ」
「あー高橋くん。ご飯目当てで結婚したいとか言ってる人に結婚の資格はないよ」
「べつにいいじゃん、なに目当てで結婚しても」
 まったくよく喋る助手たちだと、資料を見ながら彬は呆れる。
 しかも中身のない無駄話。
 そんな話をするくらい暇なら半休でもとって帰ったらどうだと言いたくなる。
 とはいえこれくらいはよくあること。多少イラっとするくらいはスルーできる。
 けれどそこであることに気がついて、資料から目を上げる。PCのスリープ画面にニコニコ笑って話をする藍の笑顔が浮んだ。
 そういえば彼女の雑談はこういう気持ちにさせられない。
 正確には"させられなくなった"というべきか。
 彼女が熱を出してから約一週間。ふたりでの夕食は続いている。
 食事はいい。
 彼女がそうしてほしいと言うのなら、こちらとしても準備の手間が省けてWINWINだ。
 だが雑談は?
 お互いに極力関わらないという約束を果たすためか彼女は食事の際の"おしゃべりはやめる"と言った。だが自分はそれに『気にするな』と答えた。
 その言葉通り、食事の間彼女はその日あったことをあれこれと話している。
 その内容は報告義務がある体調のことではなく、ボランティアがいかに楽しいか、あるいは今日の料理のポイントや失敗談など多岐にわたる。どれとして彬にとって役に立つものはない。
 あれこそ、究極の無駄話。
 けれど自分はその話に、まったくイラついていないどころか、役に立たないはずの内容を記憶している……?
 ——いつからだ?
 眉を寄せて考える。
 いつからこんなふうに感じるようになったのだろう?
 確かはじめて帰宅した日は他の人間と同じように彼女の話にもイラついていたはずだ。
 そもそもなぜイラつかない? 藍と彼ら、なにが違う?
 両者を分ける要素はなんだ? 
「あ、藤堂先生。もう時間じゃないですか? プレゼン、参加されるんですよね」
 悶々と考えていると、高橋から声をかけられる。
 時計を見るとその通りだった。
 大須賀製薬のMR主催の新薬のプレゼンだ。
 外来のない彬は基本的には関係ないが、新薬自体には興味がある。研究が最優先だから普段はあまり出席しないが今は余裕があるため出るつもりだったのだ。
 結局雑談についての疑問点には答えが出ないまま、プレゼンに向かうため資料を置いて立ち上がった。
 一時間後。
「藤堂先生、ちょっとよろしいですか」
 プレゼンが終わり、大会議室を出ようとしていた彬は呼び止められて足を止める。
 相手を見ると、ついさっきまでプレゼンをしていた大須賀製薬の男性MRだ。
「なにか?」
 なぜ自分の名前を知っているのだろうと訝しみながら答えると、彼は名刺を差し出した。
「大須賀製薬の佐相(さそう)と申します」
 名刺には佐相弥とあった。
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