藤堂彬の誤算だらけの結婚生活
 そこで藍ははじめの取り決めはそうだったと思い出す。
「そういえば言ってなかったね。はじめはそうだったんだけど、途中から彬さん毎日帰ってくるようになったの」
 毎日帰ってくるので、一緒にご飯を食べていることを報告する。だから弥のことを言うためだけに帰ってきたわけではないと説明するが陽菜の反応は微妙だった。
「え……。それって、藍的にはちょっとしんどいね」
「しんどい……?」
 その反応に藍は首を傾げた。
 なぜしんどいのだろう?と本気でわからなかった。
「だってそうでしょ? 自由になるための結婚でお互いに関わらないって約束したって言ってたじゃん。ひとり暮らししたかったんでしょ。旦那さんが帰ってこないから気楽なんだって自分で言ってたじゃん」
「そ、そう……だね」
 言いながら、藍は自分にびっくりする。
 そう言われればそうだと今さらのことに気がついたからだ。
 確かに、それが目当てで結婚したのだ。
 結婚を決めた際の約束はお互いにかかわらないこと。彬は自分はほとんど帰宅しないと言っていてそれなら同居も問題ないと判断したのだ。
 忘れていたわけではない。
 自分の方は彼に極力関わらないようにしなくてはと思っていたし、むしろそれができていなくて結婚をやめると言われないかと心配したこともあったくらいだ。
 でも逆のことは、まったく考えていなかった。
 彼が毎日帰ってくるのは、おそらくは藍の体調を目で見て確かめるため。仕方がないし納得している。たとえ気づまりだとしても文句を言う権利はない。
 でもそもそも、まったく負担に感じていない。それどころか、ひとり暮らしとはいえない生活に、むしろ満足しているような……?
「藍? どうかした?」
 黙り込んだ藍の反応を否定的にとったのか、陽菜が深刻な声を出した。
「ねえ、嫌なんだったら、結婚は解消したら? 対して親しくない人と毎日顔を合わせるくらいなら、多少不自由でも実家にいた方がいいじゃん」
「え? あ、だ、大丈夫」
 慌てて藍は口を開いた。
「気まずいとかはないんだ。家も広いし、顔を合わせることもあんまりないから……」
 あわあわと言いわけをする。毎日楽しくご飯を食べてその日あったことを話しているとは言えなかった。
「ふーん? あんまり無理しちゃダメだよ」
「うん、あ、ありがと。じゃあ、おやすみ」
 電話を切って、そのまま藍は考えた。
 唐突に、自分のことがわからなくなった。
 彬との結婚は、自由になるための手段でお互いに関わらないというのが条件だった。
 自由は手に入れた。けれどお互いに関わらないという部分は守られているとはいえない。
 それは仕方がない。彼のせいではなくむしろ自分のせいだから。それでも自由であるならば妥協できる……?
 けれどそれを"妥協している"とはまったく思っていない自分がいる。
 彼が毎日家に帰ってくること、夕食を一緒にとってくれること、その日あったことを藍が話すのを聞いてくれることを……。
 ——私、楽しんでる……?
 そう思った途端になぜか急にとくとくとくと鼓動が速くなるのを感じて、藍はパジャマの胸のところをキュッと握った。
 結婚してからこれまでの彬との出来事が次々に頭に浮かんでくる。
 ピーラーの使い方をおしえてくれたこと。
 まだ料理初心者の藍の失敗気味な料理も嫌な顔をすることなくすべて食べてくれること。
 それから、熱が出たあの夜の冷たくて大きな手の感触まで蘇ってきて……。
 なんだか急に部屋が暑くなったように感じて、慌てて暖房の温度を下げた。
 いったい自分はどうしてしまったのだろう?
 とりあえず気持ちを落ち着かせるために、サイドテーブルに手を伸ばす。そこには積み上げた本が五冊。
 本を読めば、きっと心が落ち着くはず。
 けれどそこに積まれていたラインナップを見て手が止まる。
 ——ドクターものばっかり……?
 恋愛する男女のうちヒーローの方が医師の物語ばかり並んでいたのだ。
 買った本を何度も読み返すタイプの藍の、選書基準は、その日その時期の気分次第。
 旅行に行きたい気分の時は、海外ものが多くなるし、事件ものにハマって警察官ヒーローばかりの時期もある。
 病院が舞台のものはどうしても入院生活を思い出すので、それほど好きなジャンルではなかったはずなのにどうしてかかき集めるように、ピックアップしている……。
 ——たまたま、だよね?
 そういう時もあるだろうと思い、本を開く。けれどいくらも読み進められないうちに止まってしまう。
 全然集中できなかった。さっき陽菜に言われたことから考えはじめた自分に対する違和感が頭の中をぐるぐる回る。
 今日は彬がいつもより早く帰ってきた。しかも自室へは行かず、リビングで過ごしていたのだ。本当なら気まずいと感じてもおかしくないはずだったのに……。
 いや気にはなった。
 どことなく落ち着かなくいつもと違うのがどうしてだろうと不思議だった。けれどいてほしくないとは思わなくて、むしろちょっとそわそわして、可愛かったような気が……なんてことまで思ってしまい、なんだか自分で自分がわからなくなり、藍はますます混乱した。
 ——私、なにを考えてるの……?
 結局本を読むのは諦めパタンと閉じてサイドテーブルに戻す。
 もう寝ようと思いベッドに潜り込んだ。なんだか急に気持ちが不安定になっているような気がしてちょっと怖い。
 けれど目を閉じると、余計に彼のことが浮かんで、寝られずに何度も何度も寝返りを打った。
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