冷徹営業トップは私の限界オタクでした

第19話「雨の街であなたの本音が聞けました。」

土曜日。
陽菜子は気分転換に、街へ買い物に出かけていた。
何軒か店を回り、紙袋をいくつか抱えながら歩いていると、突然ぽつりと頬に冷たいものが当たった。

「え?」

空を見上げた次の瞬間、雨粒が一気に強くなる。

「うそ……雨?」

朝、天気予報を確認せずに家を出た陽菜子は、傘を持ってきていなかった。
慌てて近くの雑居ビルの軒下へ駆け込む。

「結構降ってきちゃったな……。」

手に持っていた紙袋が濡れていないことを確認し、陽菜子はほっと息をついた。
いつ止むのだろう。
そう思いながら雨の降る通りを眺めていると――。

「……陽菜子さん?」

聞き覚えのある声がした。
陽菜子は勢いよく振り返る。
そこには、スーツ姿で傘を差した神崎が立っていた。
一週間、聞くことのなかった声。
その姿を見た瞬間、陽菜子の胸が大きく跳ねた。

「……ちくわくん。」

神崎も驚いたように目を見開いている。

「こんなところでお会いするとは思いませんでした。」

「ちくわくん……今日はお仕事だったんですか?」

「はい。ランチの会食がありまして。今、その帰りです」

神崎は陽菜子の手元にある紙袋へ目を向け、それから軒下へ視線を移した。

「陽菜子さん、傘は?」

「今日、忘れてしまって……。」

「そうだったんですね。」

神崎はスマートフォンを取り出し、天気予報を確認する。

「しばらく止みそうにないみたいですね。」

「そうなんですか……。」

陽菜子は困ったように雨を見つめた。

すると神崎が、少しだけ傘を持ち上げた。

「よろしければ、一緒に行きませんか?」

「え……。」

「この傘なら、二人でも入れますので。」

陽菜子は一瞬嬉しそうな顔をしたものの、すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。

「でも……ちくわくんの邪魔したくないです。」

「邪魔なんかではありません。」

神崎は迷うことなく答えた。

「この後の予定もありませんし。それに……。」

一瞬だけ言葉を止める。

「一週間ぶりに会えたので、もう少し一緒にいたいです。」

「……一緒に?」

言ったあとになって、神崎自身も自分の言葉に気づいた。

(……俺、今何を言った?)

耳がじわじわと熱くなっていく。
しかし、陽菜子はそんな神崎の動揺には気づかず、小さく笑った。

「じゃあ……お願いします。」

「はい」

神崎が差している傘の中へ、陽菜子が入る。
一つの傘の下に二人。
肩が触れそうなほど近い距離に、神崎の身体がわずかに強張った。

(近い……。)

けれど、不思議と以前のように取り乱すことはなかった。
それよりも。
一週間ぶりに陽菜子が隣を歩いていることが、ただ嬉しかった。

「陽菜子さん、どこかへ行く途中だったんですか?」

「はい。この先にある雑貨屋さんに行こうと思っていて。」

「では、行きましょう。」

「ありがとうございます。」

二人は同じ傘の下、ゆっくりと歩き始めた。
雨が傘を叩く音が、一定のリズムで響いている。
しばらく歩いたところで、陽菜子がぽつりと口を開いた。

「今週、忙しかったんですね。」

「はい。少し外回りを増やしていました。」

「……そうですよね。」

陽菜子の声が少しだけ小さくなった。

「先月は、私のそばにいてくれたから……営業成績が落ちてしまったって聞きました。」

神崎が足を止めかけた。

「陽菜子さん。」

「私が営業部にいた間、ちくわくん、ずっと私のことを気にかけてくれてたじゃないですか。」

陽菜子は雨に濡れた道路へ視線を落とした。

「だから、私のせいなのかなって……。」

「違います。」

神崎はすぐに否定した。

「陽菜子さんのせいではありません。」

陽菜子が顔を上げる。

「あなたのそばにいると決めたのは、俺です。」

神崎の声は真剣だった。

「外回りを減らしたのも、ランチを一緒に食べたのも、全部俺が自分で決めたことです。陽菜子さんが責任を感じる必要はありません。」

「……ちくわくん」

「むしろ、俺のせいで陽菜子さんに気を遣わせてしまったなら、申し訳ありません。」

陽菜子は首を横に振った。

「違うんです」

少しだけ迷ったあと、陽菜子は続けた。

「私こそ……ランチ、断ってすみませんでした。」

神崎はしばらく黙っていた。
雨音だけが二人の間に響く。

「謝らないでください。」

そう言ってから、神崎は少しだけ視線をそらした。

「ただ……。」

「?」

「少し、寂しかったです。」

陽菜子の目が大きくなる。

「月曜日も火曜日も断られて、その後は会うこともなくなって……。」

神崎は小さく笑った。

「避けられているのかと思っていました。」

「違います!」

陽菜子は思わず声を大きくした。

「ちくわくんに会いたくなかったわけじゃないです。」

神崎が陽菜子を見る。
陽菜子は自分でも驚くほど素直に、言葉を続けていた。

「仕事の邪魔をしたくなかっただけで……。」

そして少しだけ俯く。

「私も……寂しかったです。」

「え?」

今度は神崎が目を見開いた。

「私もちくわくんに会えなくて、寂しかったです」

雨音の中でも、その言葉だけははっきりと神崎の耳に届いた。
神崎は目を見開き、しばらく何も言えなかった。
陽菜子が、自分に会えなくて寂しかった。
その事実だけで、胸の奥が熱くなる。

「だから……」

陽菜子は少しだけ迷うように視線を落とした。

「毎日は難しくても、お互い無理のない日は……また一緒にランチしませんか?」

神崎は一瞬、言葉を失った。

「ちくわくんのお仕事に影響が出るのは嫌です。でも、だからって全然会えなくなるのも……やっぱり寂しいので」

陽菜子は少し照れくさそうに笑った。

「お互い仕事に余裕がある日だけ、一緒に食べましょう?」

「……もちろんです」

神崎は嬉しさを隠しきれず、柔らかく笑った。

「本当は毎日でもご一緒したいですが……ちゃんと仕事もします」

「ふふっ。それなら安心です」

陽菜子が楽しそうに笑う。
その笑顔を見つめながら、神崎の胸にまた不思議な感情が広がった。
陽菜子と会えることが嬉しい。
一緒に昼食を取れることが嬉しい。
それは今までずっと、推しと過ごせるからだと思っていた。
けれど――。

「ちくわくん?」

「……いえ。何でもありません」

神崎は小さく首を横に振った。
一つの傘の下、二人は再び歩き始めた。
肩が触れそうな距離を、今度は少しも遠いとは感じなかった。

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