冷徹営業トップは私の限界オタクでした

二人が向かったのは、六月になると色とりどりの紫陽花が咲くことで有名な公園だった。
園内へ入ると、遊歩道の両脇には青や紫、淡い桃色の紫陽花がずらりと咲いている。

「わぁ……きれい。」

陽菜子は思わず足を止めた。
丸く咲いた紫陽花へ顔を近づけ、嬉しそうに眺める。

「ちくわくん、見てください。この紫陽花、すごく綺麗ですよ。」

「はい。」

神崎は答えたものの、その視線は紫陽花ではなく陽菜子へ向いていた。



「……ちくわくん?」

「はい。」

「紫陽花、見てます?」

「見ています。」

「私のこと見てません?」

神崎は少しだけ黙った。

「……すみません。陽菜子さんが可愛くて、そちらばかり見ていました。」

「もう。」

陽菜子は呆れたように笑った。

「せっかく紫陽花を見に来たんですから、ちゃんと見てください。」

「努力します。」

「努力なんですね。」

陽菜子がくすくすと笑う。
そんな笑顔を見た瞬間、神崎の胸がまた大きく跳ねた。

(恋人……。この人が、俺の恋人……。)

昨日までは、隣を歩けるだけで幸せだった。
今もそれは変わらない。
けれど、今日からは少しだけ違う。
陽菜子の隣を歩いていても、もう『推し』と一緒に出かけているのではない。
恋人として、隣にいる。
そう考えるたびに、神崎はどうしても頬が緩みそうになった。

「ちくわくん、こっちにもありますよ」

少し先を歩いていた陽菜子が振り返る。

「……はい!」

神崎はすぐにそのあとを追った。
一通り公園を歩いたあと、二人は近くにあるカフェへ入った。
窓際の席へ向かい合って座り、陽菜子はアイスティー、神崎はアイスコーヒーを注文する。

「結構歩きましたね。」

「疲れていませんか?」

「大丈夫ですよ。楽しかったです。」

陽菜子が笑う。

「ちくわくんは?」

「最高でした。」

「紫陽花が?」

「陽菜子さんとのデートがです。」

あまりにも即答だった。
陽菜子の頬がじわりと熱くなる。

「……そういうこと、普通に言うんですね。」

「事実ですので。」

神崎はいたって真面目な顔をしている。
陽菜子は困ったように笑いながら、ストローでアイスティーをかき混ぜた。
そのとき。
ふと、朝から何度も気になっていたことを思い出す。

――ちくわくん。

今日も、何度その名前を呼んだだろう。
今までは何の違和感もなかった。
むしろ陽菜子にとって、とても大切な呼び方だった。
亡くなった愛犬に似ていたから、何気なくつけた名前。
けれど今、目の前にいる人は――。
愛犬に似ている誰かではない。
自分が好きになった、神崎紅夜という一人の男性だった。

「……ちくわくん。」

「はい。」

陽菜子は少しだけ迷ってから、神崎を見た。

「あの、私……そろそろ『ちくわくん』って呼ぶの、やめようかなって思ってるんです。」

神崎の表情が固まった。

「…………え?」

明らかにショックを受けている。
陽菜子は慌てて両手を振った。

「あっ、嫌になったとかじゃないですよ!」

「……そうなんですか?」

「もちろんです。」

陽菜子は少し困ったように笑った。

「『ちくわくん』って、私にとってすごく大切な呼び方なんです。」

神崎は黙って陽菜子の言葉を聞いている。

「でも……。」

陽菜子は少し照れくさそうに視線を落とした。

「神崎さんは、二人きりのとき『陽菜子さん』って呼んでくれるじゃないですか。」

「はい。」

「だから私も、下の名前で呼んでみたいなって。」

神崎の目がわずかに見開かれる。
陽菜子は恥ずかしそうに指先を組んだ。

「今はもう、ちくわくんに似てる人だから好きなんじゃなくて……。」

一度、息を吸う。

「神崎紅夜さん本人が、好きなので。」

「…………。」

神崎は完全に固まった。
耳が、みるみる赤くなっていく。
陽菜子はそんな神崎を見ながら、小さく笑った。

「だから……紅夜くんって呼んでもいいですか?」

「…………。」

返事がない。

「ちくわくん?」

「すみません。今、心の準備をしています。」

「呼ぶだけですよ?」

「俺にとっては重大事項です。」

神崎は胸元を押さえ、大きく息を吸った。

「……どうぞ。」

陽菜子もなぜか緊張してしまい、少しだけ姿勢を正す。
そして。

「……紅夜くん。」

神崎の肩が大きく跳ねた。

「っ……!」

片手で口元を覆い、そのまま俯く。

「だ、大丈夫ですか?」

「もう一回お願いします。」

「え?」

神崎は顔を上げた。
耳まで真っ赤だった。

「今の、もう一回だけお願いします。」

陽菜子は思わず笑った。

「紅夜くん。」

「…………無理です。」

神崎は両手で顔を覆った。

「恋人になった実感が一気に押し寄せてきました……。」

「ふふっ。」

陽菜子は楽しそうに笑う。

「じゃあ、これからは紅夜くんって呼びますね。」

「……はい。お願いします。」

少し間を置いて、神崎が小さく付け加える。

「ただ……。」

「?」

「たまには、ちくわくんとも呼んでいただけると嬉しいです。」

陽菜子は目を瞬いたあと、柔らかく笑った。

「もちろんです。」

『ちくわくん』は、大切な思い出から生まれた特別な名前。
そして今日からは。
『紅夜くん』という、恋人だけの新しい呼び方が増えた。
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