冷徹営業トップは私の限界オタクでした

第26話「会社でも下の名前で呼んでしまいました。 」

恋人になっても、会社での二人はこれまでとほとんど変わらなかった。
二人で昼食に出かける日もあれば、恵美や寺内と時間が合えば、みんなで社員食堂へ行くこともあった。
隠しているつもりはなかった。
ただ、付き合い始めたばかりで、わざわざ周囲へ報告するタイミングもなかった。

そんなある日。
営業部から提出された領収書に不備があり、陽菜子は確認のため営業部を訪れていた。

「寺内さん、ここです。この欄に取引先名を書いてください。」

「これ?前も書いた気がするんだけどなぁ。」

「前も同じところで間違えてましたよ。」

「春宮ちゃん、よく覚えてるね。」

寺内のデスクの横に立ち、陽菜子は領収書を指差しながら説明する。
書類を一緒に覗き込んでいるせいで、二人の距離は自然と近くなっていた。

そのとき、営業部の扉が開いた。
外回りから戻った神崎は、真っ先に陽菜子の姿を見つけた。
寺内と並び、一枚の領収書を覗き込んでいる。
しかも、近い。
神崎の眉がわずかに動いた。
次の瞬間。

「陽菜子さん。」

営業部の空気が、一瞬止まった。
陽菜子も動きを止める。

「……あ。」

会社では、ずっと『春宮さん』と呼ばれていた。
二人きりのときだけだった呼び方を、神崎は完全に口にしてしまっていた。

「……あれ?」

寺内か陽菜子と神崎を交互に見た。

「二人、付き合った?」

あまりにも平然と聞かれ、陽菜子の顔が一気に熱くなる。

「……はい。つい最近。」

「へぇ。」

寺内は神崎を見て、にやりと笑った。

「やっと付き合ったんだ。」

「……何が『やっと』だ。」

神崎は少しムッとしたように答える。

「ええっ!?」

少し離れたデスクから、大きな声が飛んできた。
振り返ると、佐藤が目を丸くしてこちらを見ていた。

「春宮さんと神崎さん、付き合ったんすか!?」

「佐藤くん、聞いてたんですか?」

「聞こえました!」

佐藤は勢いよく立ち上がった。

「いつからですか? もうデートとかしたんですか?」

「えっと……この前の休みに、紫陽花を見に行きました。」

「おおー!」

佐藤は興味津々で身を乗り出した。

「じゃあ、手とかつないだりしたんすね?」

「いえ。まだです。」

「……え?」

佐藤の動きが止まった。
寺内も一瞬黙ったあと、神崎を見る。

「まだ?」

「……まだです。」

神崎がわずかに視線をそらした。

「俺なんて、彼女と付き合って初日で手つなぎましたよ。」

「えっ、佐藤くん彼女いるんですか?」

今度は陽菜子が驚いて目を丸くした。

「いますよ!」

佐藤は当然のように答える。

「あれ、俺言ってませんでしたっけ?」

「初めて聞きました。」

「そうでしたっけ?」

佐藤はきょとんと首を傾げた。

「しかも俺――」

「佐藤。」

神崎の低い声が飛ぶ。

「はい?」

「それ以上言うな。」

「えっ、なんでですか?」

「言うな。」

「はい……。」

佐藤は素直に口を閉じた。
その隣で、寺内だけが肩を震わせている。

「……お前ら、付き合う前と何が変わったんだよ。」

「呼び方が変わりました。」

神崎は真顔で答えた。
一瞬の沈黙。

「ぶはっ!」

とうとう寺内は堪えきれず、声を上げて笑った。

「それだけ!?」

「それだけではありません。」

「じゃあ何?」

神崎は答えようとして、止まった。
陽菜子も考える。
恋人になった。
下の名前で呼ぶようになった。
けれど、それ以外は。
二人そろって黙り込んだ。
寺内は腹を抱えて笑い始めた。

「ははっ……! 本当に付き合ってんの、お前ら!」

「付き合っています。」

神崎だけは、妙に真剣な顔で言い切った。

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