終わらない夜に
「藤咲ちゃん」
そんなやりとりの中、事務所の入口から名前を呼ばれ振り向くと、そこにはひとりの男性がいた。
セットをしていないナチュラルな黒髪に細い目。ふくよかな体をグレーのスーツに包んだ彼は、私を見てにこにこと手を振った。
その笑顔にちょっと気が重くなりながらも、笑顔を作って彼の元へ向かった。
「牧野さん。お疲れさまです、商談ですか?」
「うん。でも本当は商談より藤咲ちゃんに会いに来たんだ。今日もかわいいね」
直球に褒めてくれるけれど、それはそれでいいのだろうかと苦笑いになる。
彼ーー牧野さんは、取引先である建築資材会社の社長息子だ。
今は営業として働きながら仕事を覚えている最中らしい。
「そうだ、これ差し入れ。みんなで食べて」
「いいんですか?いつもすみません」
「いいんだよ。藤咲ちゃんによろこんでほしくてさ、新潟市内の有名店に並んで買ってきたんだ」
牧野さんはどうやら私に対して好意を寄せてくれているようで、毎回のようにこうして差し入れをくれる。
それだけならまだいいのだけれど……。
差し出された紙袋を受け取った私の手を、彼は肉付きのいいその手でぎゅっと握った。
突然の接触に、触られた部分から全身にゾワゾワッと鳥肌が立つ。
「それでさ、今日こそ一緒に食事どうかな?おすすめの店があるんだ」
「あー……すみません、いつも言ってる通り私子供がいるのでちょっと」
「じゃあお子さんも一緒に!たしか双子ちゃんだよね? 藤咲ちゃんの子ならかわいいんだろうなぁ、俺いつでもパパになれるよ!」
正直、急に手を握るところも、こうしてぐいぐいくるところも苦手だ。
ひきつりそうな顔で必死に笑顔を作っていると、後ろから来た原田さんがその手を離させる。
「牧野くんダメダメ!つぐみちゃん相手いるんだってさ」
「え?」
「ちょっと原田さん!しー!」
勝手にさっきの話を告げ口する原田さんに、私はまるで雪人たちを叱るかのように注意する。
「藤咲ちゃん、そうなの?」
「いえ、相手というほどのものでもなく……」
「嘘だね。さっきあんなに頬赤めてたじゃない!」
「原田さん!」
冷やかされることでまた頬が熱くなるのを感じる。
けれど、そんな私と原田さんのやりとりを見て目の前の牧野さんは目元をピクッとさせてこちらを見る。
その顔つきに一瞬ゾッとした。
「し、仕事戻りますね。差し入れ本当にありがとうございました」
本能的に恐怖を感じ、小さくお辞儀をして逃げるようにデスクに戻る。
なんだろうあの表情……。
距離感や目つきが、前からときどき怖いなって感じるときがある。
取引先の人だしトラブルになるのもいやでいつもスルーしていたけど、一度ちゃんと断るべきだよね。
場合によっては部長に相談してみようかな……。
ジトッとした視線を感じながら、私は仕事を再開させた。
ところがそれから数分も経たずにスマートフォンが鳴る。
画面に表示された【着信 保育園】の文字に嫌な予感がしつつ恐る恐る電話をとった。
「はい、藤咲です」
『お世話になっております、おおとり保育園です。お母さんごめんなさいね、雪人くんお熱が出ちゃってて……』
案の定、体調不良からお迎え要請だ。
今日中に片付けたい仕事がまだ仕事残っているのに……。
仕方ないことだけれどがっくりとし、私は原田さんや上司に謝るとすぐに会社をあとにした。