Clover:たったひとつの記憶
EP02
ひとりの老いた男性がベッドに横たわっていた。髪は白く、顔には幾つもの皺が刻まれている。
男性の閉じられた瞳は、現実よりも過去の遠い記憶に想いを馳せているのかもしれない。
幾度となく男性の名前を呼ぶ声がある。男性の耳に届くその声は柔らかい。
『……トミオさん』
名前を呼ばれた男性、トミオは、その声にピクリと目元を動かす。
うっすらと目を開け、飛び込んでくる明るい空間に目を細めた。
ぼんやりとした視界の中で穏やかな光が、辺りを包み込むように広がる。
(ここは……あの世、か?)
『トミオさん』
先ほどから名前を呼ぶのは誰だろう?
朦朧とした意識の中で聞こえる声の主を、記憶からたどる。
馴染みのある言語。聞きなれた発音と口調。
それはこの世で誰より大切にしたいと望んでいた人の声だ。
(ああそうだ、この声は、彼女だ……)
まどろみの中、この安堵感が心地よく、そしてかけがえなく感じ……、故に瞼は上がらない。
「トミオさん……!」
次いで響いたのは無機質な声。先ほどとは異なり、温かみはない。
しかし音として届いた声に意識が引き寄せられるのを感じた。
声の主はなおも、妙に高揚したテンションでトミオを呼び続ける。
その声からは応えてくれるまで諦めないといった強い意志、そして何より一生懸命さがあった。
(……リエ?)
トミオは昔から朝が苦手だ。
そんなトミオをいつも呆れ顔で起こしてくれていたのがリエだ。
起床を促すリエと応じないトミオの、朝の攻防戦が始まる。
いくら年月を重ねても、リエはトミオを起こすミッションに必死になるのだ。
(……もう少しだけ、このままでいさせて欲しいな)
そう考えたトミオは、寝たフリをする。
「……トミーちゃん!」
声の主は少し間を置き、思いついた変化球を投げた。
それはトミオにとって想定外のアクションと言っても良い。
(トミーちゃん!? ……トミーって、俺のことか?)
その穏やかな眉がピクリと動く。声の主はこの反応を見逃さない。
「朝。トミーちゃん! ……今すぐ起きる!」
それは勝利を確信した朝の挨拶。
トミオの動揺した反応が嬉しかったのだろう。声のトーンが少し上がっていた。
(さてはリエのやつ、俺の反応を楽しんでいるな?)
トミオはリエの勝ち誇った顔を見てやろうと、勢いよく目を開く。
『俺はトミオだ。やり直しを要求する!』
けれどもその目が捉えたものは、見慣れた寝室の天井。
少し開いた窓からは、生ぬるい風が入り込み、和紙製のブラインドを揺らす。
宙をさまようトミオの、75年の年月を刻んだ左手は何かを掴もうと小刻みに震えていた。
(夢……)
「やっと起きた!」
抑揚のない単調な声。穏やかで、静か。人の声を模倣した無機質なこの声を、トミオは誰よりよく知っている。
「おはよう、サツキ」
ベッドサイドの左側、窓側に立つのはトミオを主とするサツキ。
基幹デザイン式ヒト型AIドールだ。
部分的に機械構造が露出している白いボディは、特殊塗料で着色された軽量合成金属製。
頭部中央にパール大ほどの大きさの黒いカメラがふたつ、眼のように並ぶ。
すらりとした鼻、横に広がる小さな楕円形の穴が口の役割をしている。
このデザインは主がAIドールに感情移入をしないよう設計段階で考慮されたデザイン様式。
トミオはサツキという名を付け登録した。主な使用目的はユーザーの生活のサポートだ。
「おはよう、トミオさん」
サツキは何も入っていない洗濯籠を床に置き、風に揺れてもつれたブラインドを直した。
トミオ自身が趣味で藍染めをした木綿のエプロンが、朝の光を受けて明るく輝く。
「今日はイイ太陽! イイ一日の始まり!」
「良い太陽なら洗濯もはかどりそうだね」
「ハイ。だから今日は洗濯を沢山する。トミオさん起きて着替える、いつもの測定する!」
「うん、お願いするよ」
トミオの言葉にサツキは頷き、機械の右手を差し出す。
その甲には「WHR21X2-0415」というシリアルナンバーが刻まれている。
これはアゼレウス社とゼロン社、両企業の製品である証拠、そしてサツキがヒトではないという証。
サツキの眼が、開いた窓に向けられる。風が藍染のエプロンの裾を揺らす。
毎朝の測定はサツキの手の上に、トミオが右掌を乗せることで始まる。
それは通常90秒ほどで終了するものだが、今日はなかなか判定が出ない。
「……もう一度トライ!」
先ほどと同じ動作を繰り返す。
トミオは少しだけ焦りを感じたが、今度の測定では結果が出た為、少しホッとしていた。
「……カンリョウ」
「ありがとう、サツキ」
完了を合図に、無言のままトミオがサツキから手を離す。
サツキは離れていくトミオの手を、二つの黒いカメラの目で追いかけた。
「……トミオさん、イイ夢ミレマシタ?」
サツキの言葉にトミオは少し考えるも、明確な答えは出てこなかった。
「……わからない。ただ、サツキのおかげで目覚めは良かったよ」
そう言いながら、自然と口元がほころぶ。
これも“サツキのおかげ“だ。
「ヤッター! これで今日もシアワセ!」
トミオの言葉にサツキはカメラアイをピンク色に点灯させる。
子供のように素直な反応。苦笑しながらも、悪い気はしない。
穏やかな微笑みの奥で、罪悪感だけがちらついた。
(サツキはリエの代わりではない。いや、誰もリエの代わりになど、最初からなれはしない……)
無駄のない動きで家事をこなす、サツキ。
トミオはその姿を無言のまましばらく見守った。
やがて壁の時計を確認し、愛用の杖を頼りに歩く。
今日はトミオにとって重要な一日。その朝がいま始まったのだ。
男性の閉じられた瞳は、現実よりも過去の遠い記憶に想いを馳せているのかもしれない。
幾度となく男性の名前を呼ぶ声がある。男性の耳に届くその声は柔らかい。
『……トミオさん』
名前を呼ばれた男性、トミオは、その声にピクリと目元を動かす。
うっすらと目を開け、飛び込んでくる明るい空間に目を細めた。
ぼんやりとした視界の中で穏やかな光が、辺りを包み込むように広がる。
(ここは……あの世、か?)
『トミオさん』
先ほどから名前を呼ぶのは誰だろう?
朦朧とした意識の中で聞こえる声の主を、記憶からたどる。
馴染みのある言語。聞きなれた発音と口調。
それはこの世で誰より大切にしたいと望んでいた人の声だ。
(ああそうだ、この声は、彼女だ……)
まどろみの中、この安堵感が心地よく、そしてかけがえなく感じ……、故に瞼は上がらない。
「トミオさん……!」
次いで響いたのは無機質な声。先ほどとは異なり、温かみはない。
しかし音として届いた声に意識が引き寄せられるのを感じた。
声の主はなおも、妙に高揚したテンションでトミオを呼び続ける。
その声からは応えてくれるまで諦めないといった強い意志、そして何より一生懸命さがあった。
(……リエ?)
トミオは昔から朝が苦手だ。
そんなトミオをいつも呆れ顔で起こしてくれていたのがリエだ。
起床を促すリエと応じないトミオの、朝の攻防戦が始まる。
いくら年月を重ねても、リエはトミオを起こすミッションに必死になるのだ。
(……もう少しだけ、このままでいさせて欲しいな)
そう考えたトミオは、寝たフリをする。
「……トミーちゃん!」
声の主は少し間を置き、思いついた変化球を投げた。
それはトミオにとって想定外のアクションと言っても良い。
(トミーちゃん!? ……トミーって、俺のことか?)
その穏やかな眉がピクリと動く。声の主はこの反応を見逃さない。
「朝。トミーちゃん! ……今すぐ起きる!」
それは勝利を確信した朝の挨拶。
トミオの動揺した反応が嬉しかったのだろう。声のトーンが少し上がっていた。
(さてはリエのやつ、俺の反応を楽しんでいるな?)
トミオはリエの勝ち誇った顔を見てやろうと、勢いよく目を開く。
『俺はトミオだ。やり直しを要求する!』
けれどもその目が捉えたものは、見慣れた寝室の天井。
少し開いた窓からは、生ぬるい風が入り込み、和紙製のブラインドを揺らす。
宙をさまようトミオの、75年の年月を刻んだ左手は何かを掴もうと小刻みに震えていた。
(夢……)
「やっと起きた!」
抑揚のない単調な声。穏やかで、静か。人の声を模倣した無機質なこの声を、トミオは誰よりよく知っている。
「おはよう、サツキ」
ベッドサイドの左側、窓側に立つのはトミオを主とするサツキ。
基幹デザイン式ヒト型AIドールだ。
部分的に機械構造が露出している白いボディは、特殊塗料で着色された軽量合成金属製。
頭部中央にパール大ほどの大きさの黒いカメラがふたつ、眼のように並ぶ。
すらりとした鼻、横に広がる小さな楕円形の穴が口の役割をしている。
このデザインは主がAIドールに感情移入をしないよう設計段階で考慮されたデザイン様式。
トミオはサツキという名を付け登録した。主な使用目的はユーザーの生活のサポートだ。
「おはよう、トミオさん」
サツキは何も入っていない洗濯籠を床に置き、風に揺れてもつれたブラインドを直した。
トミオ自身が趣味で藍染めをした木綿のエプロンが、朝の光を受けて明るく輝く。
「今日はイイ太陽! イイ一日の始まり!」
「良い太陽なら洗濯もはかどりそうだね」
「ハイ。だから今日は洗濯を沢山する。トミオさん起きて着替える、いつもの測定する!」
「うん、お願いするよ」
トミオの言葉にサツキは頷き、機械の右手を差し出す。
その甲には「WHR21X2-0415」というシリアルナンバーが刻まれている。
これはアゼレウス社とゼロン社、両企業の製品である証拠、そしてサツキがヒトではないという証。
サツキの眼が、開いた窓に向けられる。風が藍染のエプロンの裾を揺らす。
毎朝の測定はサツキの手の上に、トミオが右掌を乗せることで始まる。
それは通常90秒ほどで終了するものだが、今日はなかなか判定が出ない。
「……もう一度トライ!」
先ほどと同じ動作を繰り返す。
トミオは少しだけ焦りを感じたが、今度の測定では結果が出た為、少しホッとしていた。
「……カンリョウ」
「ありがとう、サツキ」
完了を合図に、無言のままトミオがサツキから手を離す。
サツキは離れていくトミオの手を、二つの黒いカメラの目で追いかけた。
「……トミオさん、イイ夢ミレマシタ?」
サツキの言葉にトミオは少し考えるも、明確な答えは出てこなかった。
「……わからない。ただ、サツキのおかげで目覚めは良かったよ」
そう言いながら、自然と口元がほころぶ。
これも“サツキのおかげ“だ。
「ヤッター! これで今日もシアワセ!」
トミオの言葉にサツキはカメラアイをピンク色に点灯させる。
子供のように素直な反応。苦笑しながらも、悪い気はしない。
穏やかな微笑みの奥で、罪悪感だけがちらついた。
(サツキはリエの代わりではない。いや、誰もリエの代わりになど、最初からなれはしない……)
無駄のない動きで家事をこなす、サツキ。
トミオはその姿を無言のまましばらく見守った。
やがて壁の時計を確認し、愛用の杖を頼りに歩く。
今日はトミオにとって重要な一日。その朝がいま始まったのだ。