あきない恋を、君と夜の街で。〜氷の貴公子の裏の顔〜
 夜風がひなたの髪を激しく吹き散らす。
 スピード感に圧倒されたひなたは、思わず秋人の私服の革ジャンの裾をキュッと強く握りしめた。

 背中越しに伝わってくる、彼の体温。学校では「氷の貴公子」と呼ばれ、触れることすら許されないはずの男の体温が、指先を通じてじんわりと伝わってくる。

 秋人の操縦するバイクは、夜の港湾エリアへと向かっていた。ビル群の明かりが遠のき、静まり返った湾岸の公園。大きな月が海面に青白い光の筋を落としている場所で、バイクは静かにエンジンを切った。

「……ここでお前を降ろせば、駅から徒歩五分だ」

 秋人はバイクから降りると、スタンドを立て、私服の革ジャンを羽織り直した。今度こそポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。紫煙が夜空へとのぼり、月明かりに溶けていった。

「……怖かっただろ」

 煙草を咥えたまま、秋人がポツリと呟いた。ひなたを見ようとせず、遠くの海を見つめている。

「私立鳳凰学園の生徒会長が、夜中に暴走族まがいの真似をして、人を殴り倒してる。 ……引いただろ」

 自嘲気味な笑み。彼はきっと、自分を「異常な人間」「関わってはいけない人間」としてひなたが蔑むのを待っているのだ。自分から人を遠ざけるために、わざと嫌われるような言い方をしている。

 だが、ひなたは静かに首を横に振った。

「ううん…… 恐怖なんてなかった。すごく…… 安心したよ」
「……は?」

 秋人が煙草を指に挟み、不快そうに眉をひそめてひなたを見た。

「何言ってるんだ、お前。俺は人を殴ったんだぞ」
「だって、秋人くんが来てくれなかったら、私…… どうなってたか分からないもん。秋人くんは私を助けるために、危険な目にあってくれたんでしょ?」

 ひなたは歩み寄ると、秋人の右手に目留めた。
 拳の皮膚が裂け、うっすらと赤い血が滲み出している。相手を殴った衝撃で、彼自身の拳も傷ついていたのだ。

「手…… 痛いよね」

 ひなたは自分の鞄を探り、小さなキャラクター柄のハンカチと、いつも陸のために持ち歩いている絆創膏を取り出した。

「な、何すんだ……っ」

 嫌がる秋人の手を強引に掴む。彼の大きな手は、夜風に晒されて冷たくなっていたが、力強く、そしてどこか震えているように思えた。ひなたは丁寧に血を拭き取ると、傷口に絆創膏を貼り、手袋代わりにハンカチを彼の掌に握らせた。

「私、今日のことは誰にも言わないよ。絶対に」

 ひなたは秋人の瞳をまっすぐに見つめ、優しく微笑んだ。

「だって…… 秋人くんは、私を助けてくれたヒーローだもん」
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