あきない恋を、君と夜の街で。〜氷の貴公子の裏の顔〜
「ヒー…… ロー……?」

 秋人の思考が停止した。

 耳を疑うような言葉だった。
 これまで、彼に向けられてきた言葉は二種類しかなかった。
 家族からの「春夏冬家の名に恥じない完璧な道具であれ」という冷淡な命令か。
 学校の人間たちからの「氷の貴公子」「近寄りがたい完璧な存在」という遠巻きの崇拝か。

 夜の繁華街で暴力を振るう自分は、紛れもなく「最悪の人間」のはずだった。鬱屈とした感情を吐き捨てるために拳を振るい、ルールを破ることでしか己の生を実感できない、歪んだ落ちこぼれ。

 それなのに、目の前にいる小柄な少女は、血のついた己の手を握りしめ、「ヒーロー」だと笑ったのだ。

「お前…… 頭おかしいんじゃないのか」

 秋人は動揺を隠すように、乱暴に手を振り払った。ハンカチが手の中に残る。

「俺はヒーローなんかじゃない。ただの暴力野郎だ。お前を助けたのも、たまたま通りかかっただけだ。勘違いするな」
「たまたまでも、助けてもらったのは事実だもん」

 ひなたは引かなかった。彼女の瞳には、一切の嘘も、秋人を恐れる色もなかった。ただ純粋な感謝と、彼を思いやる温かな光だけが宿っていた。

「私の名前ね、田中ひなたっていうの。同じクラスなんだよ。知ってた?」
「……知ってる。出席番号順で近いだろ」
「あ、覚えててくれたんだ! 嬉しいな」

 ふふっと花が咲くように笑うひなた。その笑顔の眩しさに、秋人は思わず息をのんだ。
 昼間の校舎で見るどの女子生徒よりも質素で、派手なメイクもアクセサリーもつけていない。けれど、その笑顔は夜の港を照らす月明かりよりもずっと温かく、秋人の胸の深い場所を照らし出した。

「……そろそろ行くぞ。親が心配する」

 秋人は背を向け、バイクに跨がった。これ以上この少女と一緒にいたら、自分が保てなくなる気がした。長年かけて築き上げてきた「冷徹な仮面」が、彼女の温もりによってドロドロに溶かされていくような、未知の恐怖。

「あ、うん! 送ってくれてありがとう、秋人くん!」
「……外では『春夏冬』と呼べ。学校では他人だ」

 冷たく突き放す言葉を投げかけながらも、秋人はエンジンをかける際、ひなたがしっかり掴まれるように一瞬だけ発進を遅らせた。

 夜の街を疾走する帰り道。
 秋人の背中に触れるひなたの小さな手の温もりが、革ジャンを通してどこまでも温かく伝わっていた。
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