消して、奪って、きみだけを
「……なんて」
身じろぎひとつできないでいると、ふいにそう言った叶人くんが離れる。
止まっていた息がこぼれた。
ほっとしたのか、惜しいのか、自分でも分からないまま戸惑う。
「冗談だよ。あんまり無防備だから心配になって」
「……なんだ。もう、びっくりした」
「ごめんね。羽衣の気持ちを無視してそんなことはしないから安心して」
柔らかく微笑みかけてくれる彼に自ずと緊張がほどけていった。
優しい叶人くんなら、きっと本当にそうしてくれるだろうと確信を持って言える。
そうやって、本来ならいつだってわたしの意思を尊重してくれるのに、どうして記憶だけは一方的に消してしまうんだろう。
どうすれば彼の不安を拭えるんだろう。
「買い出しにでも行こうか? 夕食は僕が作るよ」
「わぁ、いいの? 叶人くんって料理もできるんだ」
素直にうれしいのと純粋に感動を覚えて表情を綻ばせる。
料理まで得意だなんて、本当に何でもできるんだ。
「お母さんに教わったとか? あ、それで妹さんに作ってあげてたり……?」
「……え?」
ふと思いついたことを口にすると、叶人くんの顔からふいに笑みが消えた。
怪訝そうに、というか警戒するように頬を強張らせる。
「あ、ちがった? 前に髪を結んでくれたとき、慣れてるって言ってたから妹さんがいるのかなって……。ごめん。わたし、そういうことも覚えてなくて」
きっと以前は知っていたであろう彼に関する情報も、あの頃の記憶だからか、絡め取られるようにして一緒に抜け落ちていた。
眉を下げつつ正直にそう言うと、叶人くんは「ああ……」と腑に落ちた様子で呟く。
ほっとしたように普段の調子を取り戻して言葉を繋いだ。
「妹はいないよ、ひとりっ子だったし。慣れてるのは……たまに小さい子の髪を結ぶ機会があって。それだけ。料理も教わったのはそうだけど、母にじゃない」
一応教えてはくれたものの、それはどういうことなんだろう。
何だか抽象的なもの言いは、あえて詳しく語ることを避けたみたいに感じられた。
「そう、だったんだ」
それでも、踏み込めない。
たたえている透明よりも澄みきった表情が、触れたら壊れてしまいそうに見えたから。
精巧なガラス細工みたい。あるいは、繊細な氷の彫刻。
触れた瞬間にひびが入って割れてしまうか、この体温で溶けて消えてしまいそう。
(……あれ?)
何だかデジャヴのようなものを感じた。
瞳にさした寂しげな暗い影に痛みを覚えたのは、これが初めてじゃない。
もしかして、以前にもこんな話をしたことがあっただろうか。
それも記憶の海の底で眠りについているのかもしれない。
「……行こっか」
おもむろに叶人くんがわたしを見やる。
微笑みかけてくれるその顔に翳りは見えなくなっていた。