Fahrenheit Ⅳ

「今日はちょっと用事がありますのでお先に失礼します」とあたしはコートとバッグを持ってさっさと立ち去った。


「珍しいですねー、柏木さんが一番最初って」と佐々木さんの声がほんの僅か聞こえてきた。


「予定でもあるんだろ、お前も今日は早く帰れ。新年早々長居するのはよくない」と啓の声もする。


あたしはその声を聞かなかったことにして、早々に社を出た。近くのコインパーキングに一日停めた車に乗り込み、何気なくサンバイザーを下ろしミラーを見ると唇に色が欠けていた。バッグの中の化粧ポーチから口紅を取り出すとそれを丁寧に唇に乗せる。


あたしは……何をやってるのだろう。相手は葵さんだというのに。


自分で自分が分からない。


ため息をつきながらあたしはエンジンスターターを押した。


最後、念のためルームミラーの角度を確認するつもりで僅かに調整していると、啓の姿がちらりと映った気がした。


慌てて背後を見やると啓の姿はなく、


見間違え……


はぁ、あたし重症だわ。


今から他の男性とドライブだっていうのに、まだ啓の姿を求めている。


気持を入れなおしてあたしは車を発車させた、


東京のこの夜の時間帯、ちょうど帰宅ラッシュなのか道は思いのほか混んでいた。これじゃ葵さんの家に間に合わない。途中葵さんに遅れると連絡を入れて、結局一時間15分も掛かってしまった。


「瑠華ちゃんが遅くなるなんて珍しいね」と古びたアパートの前で何分待っていたのだろうか、葵さんの顔は寒さで赤くなっていた。


「ごめんなさい、渋滞に引っかかっちゃって」


「ううん、いいよ。気にしてない♪でもサ、このLFAだったらモーゼの十戒みたいに道開けてくれない?」


「そんなバカな」あたしは葵さんのジョークにちょっと笑った。


良かった。あたし……まだ少し―――笑える。

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