Fahrenheit Ⅳ
「じゃぁ紫利さんも旦那に演技を?」探るように目を上げると
「さぁ?したりしなかったり」とうまくかわす。
俺をフッて?いや……最初にフったのは俺か。でも最初から紫利さんの心にはいつも旦那の姿が君臨していた。それは背徳的なことをしている罪悪感とかではなく、俺には”真実の愛”に感じたよ。
そう思うと、この艶やかで気品があって知的な紫利さんの隣に並ぶ旦那の姿はどんなだろう、と少しの興味が湧いてきた。きっと俺よりうんと大人で紫利さんの全てを包み守り、心優しくついでに面もいいに違いない。
「あなたには―――たくさん演技したわ」と俺の唇に人差し指を乗せられ俺は目をまばたいた。
「それは―――俺のこと少しでも好きでいてくれたってこと?」
探るように目を上げると、紫利さんは少し寂しそうに笑い
「ええ、とても」と小さく囁いた。
美人で、頭が良くて会話が面白くて―――美しい俺の年上のかりそめだとはいえ恋人。俺はいつもガキ扱いされないよう紫利さんの前ではいつも背伸びしていた。飽きられないように、捨てられないように。思えば派手に遊んでいたあの頃、紫利さんにだけは必死になっていた。
「だからね、あなたが今瑠華ちゃんの為に必死になっているところを見ると応援したくなるの。元カノが言うのは変なことかしら」と紫利さんはちょっと苦笑を浮かべたが、本心だろう。
「あら、もうこんな時間。今日私仕事納めなの」と紫利さんはスマホの時間を見て伝票に手を伸ばす。
「いや、ここは俺が」と言ってその手に重ねるとひんやりとその手は冷たかった。
「今度お返しにさ、紫利さんに手袋を贈るよ」
紫利さんは軽く微笑んだだけだった。
あなたの冷え切った手を温めるのは旦那しかできないだろうが、せてもの最後のかりそめでいさせて。
席を立って立ち去ろうとする紫利さんを目で見送ろうとしていて俺は
「紫利さん」俺は彼女を呼び止めた。
紫利さんが僅かに振り返る。
「俺も!俺も好きだったよ」
紫利さんは赤い唇の口角を僅かに上げ、今度こそ立ち去っていった。
さよなら。俺の永遠の恋人。また会う日まで。