Fahrenheit Ⅳ
数時間前、あたしは銀座の百貨店で紫利さんと居た。紫利さんは淡い水色の着物に、それより少し濃い色の帯をしていた。帯の正面は見事な菊の刺繍が施されていた。くすんだ色の銀色の帯締めに、帯揚げとバッグは白でいつもの着物よりシンプル目に見えたが、それが紫利さん本来の美しさをより際立たせていた。
「ごめんね、呼び出しちゃったりして」と紫利さんは謝ったが、あたしは首を横に振った。
「いいえ、暇をしていたので。何をしようかとちょうど迷ってまして。ダメですね。今まで仕事仕事ばかりだったからいざ暇になると何をすればいいのか分からず」と苦笑を浮かべると
「私なんて年中暇を持て余してるわ。もう慣れたけれどね。あまりに暇な時は旅行に行くの」
ええ、知っている。紫利さんが旅行好きなことを。
「実はおせちを頼んでてね。毎年は自分で作ってるんだけど今年は仕事が忙しくて作る余裕がなかったから頼んじゃった」と紫利さんは悪戯っ子のようにぺろりと舌を出してはにかむ。
「おせちを自分で?それは素晴らしいですね」
そう言えば、うちのママもおせちは毎年手作りだった。
NYに移住してからも日本の食材が売っているマーケットにわざわざ出向いて作っていたっけね。
それをあたしが結婚してからも毎年おすそ分けしてくれていたが、マックスは日本のおせちがあまり得意じゃないのかあまり口にしなかった。
ママが作ってくれたおせちを残さず食べたかったけれど、流石に自分一人で全部平らげることができずに傷んで捨てる羽目になってしまったことが悲しかったが。
年末の百貨店の食品売り場はそれはもう大混雑していた。
やっとの思いで進んで、紫利さんが注文したという店に辿り着いたときにはもうへとへとだった。
肩で息をしていると、いつの間にかお会計を済ませたのか紫利さんが二つの紙袋を手にしていて
「はい、これは瑠華ちゃんの分」と手渡してくれた。
「え?」目をまばたいてその紙袋の行方を眺めていると
「瑠華ちゃんのことだからおせちとか用意してないでしょ?あ、悪い意味に取らないでね?」
「ええ、用意はしてませんでしたが」
「ここ、結構おいしいって有名らしいわ。ネットで調べて口コミが良かったの」
差し出されて受け取ると、それは思った以上にずしりと重かった。中を覗くと薄紫色の上品な色合いの風呂敷で重箱が包まれていた。
重箱は三段はありそうだ。
「あの、おいくらでしたか?」バッグから財布を取り出そうとすると、紫利さんはやんわりとそれを手で制した。
「結構よ。瑠華ちゃんの意見も聞かず勝手に私がしたことだから」と言われてあたしはまたも目をまばたいた。
でもショーケースに並べられたおせちのディスプレイには結構な値段が記されている。
「それは流石に……」
「じゃぁこの後、食事に付き合って?支払いはもちろん私がするけれどうちの主人を紹介したいの」
え?