愛が全てじゃないけれど
 キスに応えることも。

 ただ黙って突っ立っていただけ。

 数秒、十数秒かもしれない。

 私はただじっとしていた。

 慶太朗がそれに気づくまで。

 そして、気が付いた彼はゆっくりと私から離れ、とても悲しそうな表情(かお)で去って行った。


 どうして慶太朗が傷ついた表情(かお)をするのよ――!


 私は部屋のドアの前に落ちたコンビニの袋を拾い上げ、バッグから部屋の鍵を取り出し、鍵穴に挿し込んだ。

 カチャンッと家主の気分とは真逆の、小気味良い金属音が、まるで眼球の奥にある、涙のダムを守る(ゲート)の開閉スイッチのように聞こえた。

 廊下に小さな水滴の染みを残し、ドアが閉まる。

 パタンッといつもよりずっと優しいその音が、『もういいよ』と背中をさすった気がして、その場にしゃがみ込んだ。

「う……っふ……っ」

 恋が終わるのは、いつも辛い。

 どんな終わり方でも、だ。

『美空。ちゃんと話しなさいよ』

 昼間の奈都の言葉を思い出す。


 話せなかったよ、奈都……。


 私はズルい。

 謝る慶太朗を責め立てることもせず、諦めた。

 小花ちゃんにキスされて嬉しかった? 少しは私のこと考えた? どうしてすぐに追いかけてきてくれなかったの? 電話をしてくるまでの三時間、なにをしていたの?


 信じられないとわかっているのに、聞いてどうするの……?


 人の心の作りは、複雑なようで単純だと思う。

 そこに行きつくまでの回路や手順は複雑でも、リタイアポイントはいくつもあって、行くか行かないか、進むか諦めるか、進み続けるか引き返すか、自由。

 結局、どうしたいか、どうすべきか、だ。

 そして、その理由が単純なのだ。

 楽しい、疲れた、悔しい、つまらない、嬉しい、苦しい。


 そして、好きか嫌いか。愛しているか愛していないか。


 慶太朗が好きだった。

 けれど、愛していなかった。

 少なくとも、慶太朗が私を想ってくれているほどには。

 人の気持ちが目に見えたらいいのに、とよく聞く。

 私もそう思う。

 人の気持ちは目に見えないからこそ信頼関係が大切、とも聞く。

 私もすごくそう思う。

 でも、気持ちの向き、も大切だと思う。


 そうだ。私と慶太朗じゃ想いの大きさも重さも方向も違った……。


 人生は選択だ。

 私は、慶太朗との別れを選んだ。

 最後のキスの虚しさに、ワイドパンツの膝を涙で濡らす。


 成長、ないわね……。


 いつかも、今日と同じように聞きたいことを飲み込んだ。

 大好きな男性(ひと)から、初めてキスされた時。

 好きだと言っても言われてもいない関係で、近づく彼の瞳を前に目を閉じたのは、私だった。

 すごく大切そうに優しく唇を食まれ、涙が滲むほど嬉しかった。

 あの時、聞けばよかった。

 どうしてキスしたの? と。

 聞かずに後悔するとわかっていたら、聞いた。

 でも、後悔するかしないかはその時にならなければわからないから、厄介だ。

 私は、明日がある、と思った。

 彼の電話が鳴って、私の電話も鳴って、互いに背を向けた。

 そのまま別れたけれど、当然のように明日があると思った。

 明日、聞けばいい。

 そう思ったのに、明日はこなかった。

 いや、明日はきた。

 来なかったのは、彼。

蜂谷(はちや)の転勤と引継ぎについて報告がある』

 当時の人事部部長の言葉に、私は息をするのも忘れた。

 そして、突然の有休休暇の後、転勤日まであと二週間という日に出社した彼に、部長が言った。

『転勤には嫁さんも連れて行くそうだな』


 聞けるわけ、ないよ……。


 どうしてキスしたの?

 あの日の私はずっと、迷路の中で立ち止まったまま。
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