愛が全てじゃないけれど
「聞いてほしいことがある」

「嫌です」

「大熊」

「嫌です! 今更、聞きたくない」

 私は自分の腕を引いて、彼の手から逃れようとするも、あまり力が入らない。

 蜂谷さんが強く握っているわけじゃない。

 なのに、掴まれたその、彼の手の熱に力を吸い取られるようで、私はペットボトルを落とさずにいるのが精いっぱい。

「頼む、聞いてくれ。あの時、俺は――」

「――聞いても! あの時の気持ちは戻ってこないのに」

 蜂谷さんのひゅっと息を吸うと、私の手からペットボトルが落ちて、同時に彼の手から私の手が放たれた。

 ペットボトルは転がって、彼の爪先を突く。

「失礼します」

 私は走り出した。

 刺すような冷たい風で頬が痛いけど、立ち止まらなかった。

 三年半前、蜂谷さんに何があったのか。

 三年半前、蜂谷さんは何を思っていたのか。

 聞きたい。

 聞きたくない。

 聞いちゃいけない。

 電車に乗って、ちょうど空いた椅子に座り、じっとしていた。

 ただじっと、何も考えないように窓の外を見ていた。

 もうすぐ降りるところで、鏡に映る自分が、手を握っているのを見た。

 蜂谷さんに握られた手を、もう片方の手で強く握っている。

 気が付いてすぐに離し、立ち上がった。

 電車を降りて、改札を出て、冷たい空気にまた身震いする。

 蜂谷さんはきっと、残業中。


 仕事をしながら、何を思っているのかしら……。


 そんなことを考える自分が嫌で、いつもより足早に自宅を目指す。

 成悟さんに送ってもらったコンビニの前まで来た時、バッグの中でスマホが震えた。

 家に帰ってから見ようと思ったのは本当に一瞬で、私はコンビニに入ってスマホを取り出した。

 成悟さんからのメッセージだった。

〈今日は寒いね〉

 何気ないメッセージを映したスマホを、両手で強く握る。


 成悟さん……。


 何を言うか考えるより前に、私はメッセージ画面の上部にある受話器のマークをタップしていた。

 出るだろうか。

 出てくれるだろうか。

 少し緊張して画面を見ていたら、店員が「ありがとうございました!」と客を見送る声を聞いて、ハッとした。

 慌てて電話を切って、目の前のドリンクコーナーからミネラルウォーターを一本手に取りレジに行く。

 学生らしい若い男性店員から元気に見送られて店を出ると、手に持ったままのスマホが震えた。

 成悟さんからの着信。

 私はペットボトルをバッグに入れて、画面の〈応答〉のマークをタップした。

 スマホを耳に当てると、すぐに彼の声がした。

『美空さん? 電話に出られなくてごめん』

「私こそごめんなさい。忙しいのに」

『いや、ちょうど打合せが終わったところなんだ』

「帰るところですか?」

『うん。これから――』

『――お待たせしました、社長』

 成悟さんの後ろで女性の声。

 聞かなくてもわかる。日向さんだ。

『日向、俺は社に戻らない。きみもこのまま帰っていい』

 ピリッとハリのある彼の声に、背筋が伸びる。

 社長としての彼の声や口調は、私と話す時より少し低くて、硬い。

『ですが――』

『――お疲れ。タクシー代はいつも通り経費として精算してくれ』

 スマホ越しの会話に、姿は見えなくてもなんだかハラハラしてしまう。

『社長!』
< 44 / 49 >

この作品をシェア

pagetop