好きでいっぱい

第9話 帰り道の温度

翌日。
朝から空は薄い雲に覆われていた。
雨は降っていないけれど、湿った空気がゆっくり流れている。

「……今日も会えるかな」

小さく呟く。
恋人になってから、こうして“会いたい”と思う時間が増えた。

昨日の雨宿りのことを思い出す。
軒先でつないだ手。
車の中で聞いた雨音。
部屋の前で交わした「また明日」。

胸の奥が静かに温かくなる。

◇

仕事を終えて外へ出ると、夕方の空は淡い色をしていた。
雨は降りそうで降らない。
そんな曖昧な天気が、今の自分みたいだと思う。

カフェ・ルーチェの前まで来ると、扉の向こうからコーヒーの香りが漂ってきた。

「……入ろう」

昨日より少しだけ迷いが短かった。

扉を開ける。

「いらっしゃい」

悠真さんが、いつものように笑った。
その笑顔を見るだけで、胸が軽くなる。

「今日も来てくれて嬉しいです」

「……来たくなったので」

言葉にすると照れくさい。
でも、もう隠す必要はない気がした。

◇

窓際の席に座ると、悠真さんがラテを運んできた。

「昨日の雨、すごかったですね」

「はい……でも、楽しかったです」

「僕もです」

少し照れたように笑う。
その笑顔が、昨日より近く感じた。

「雨宮さん」

「はい?」

「昨日、部屋の前で言おうと思ってたことがあって」

胸が跳ねる。

「……なんですか?」

悠真さんは少しだけ視線を落とした。
それから、ゆっくりと口を開く。

「雨宮さんと歩く帰り道が、すごく好きです」

胸がぎゅっとなる。

「昨日も……雨宿りのあと、車に戻るまでの時間がすごく嬉しくて」

「……私もです」

言葉にすると、胸がまた静かに満たされる。

◇

閉店後。
外は雨が降りそうで降らない曇り空だった。

「今日は……歩いて帰りませんか?」

悠真さんが言う。

「歩いて……?」

「はい。雨、まだ降ってないので」

胸がじんわりと温かくなる。

「……はい」

二人で並んで歩く。
昨日より近い距離。
肩が触れそうで触れない。

「雨宮さん」

「はい?」

「手、つないでもいいですか?」

昨日より自然な声だった。

私は小さく頷いた。

そっと重ねられた手は、雨が降っていないのに温かかった。

「雨、降らないといいですね」

「……降ってもいいです」

「え?」

「桐生さんと一緒なら……どっちでもいいので」

悠真さんは少し驚いたように、それから静かに笑った。

「僕もです」

◇

アパートの階段を上がる。
隣同士の部屋の前で立ち止まる。

「今日も……ありがとうございました」

「いえ。僕の方こそ」

昨日より少しだけ名残惜しい沈黙が流れる。

「じゃあ……また明日」

「……はい」

昨日より近い距離で交わす「また明日」。
その言葉が、曇り空の夜を優しく照らしていた。

◇

部屋に戻ると、レシピノートを開いた。

新しいページに、そっと書く。

『雨が降らなくても、桐生さんと歩く帰り道は温かかった。
手をつないだ時間が、昨日より少し長かった。』

ページがまた一つ増える。
二人の時間が、また一つ増える。

曇り空の帰り道は、今日も静かに恋を進めてくれた。


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