君を好きだと知った日-あの日、恋だと知らなかった――忘れた頃に、もう一度。

第5部 帰る時間

楽しい時間ほど、終わるのが早い。

気づけば、空はもう少しずつ色を変え始めていた。

昼間の明るさが薄れて、街の灯りが目立つようになる。

「もうこんな時間なんだ」

そう言ってスマートフォンを確認する。

帰りの飛行機の時間。

頭では分かっていたはずなのに、数字を見た瞬間、急に現実味が増した。

もうすぐ帰らなければならない。

そう思った。

ただ、それだけのはずだった。

なのに。

胸の奥が、ほんの少しだけ沈んだ。



今日一日のことを思い返す。

初めて会ったこと。

写真で見るより、ずっと柔らかかったこと。

思っていたよりぽやぽやしていて、時々びっくりするくらい無邪気だったこと。

くだらないことで笑ったこと。

日本語を聞かれたこと。

私の韓国語を直されたこと。

自転車が来たとき、さっと引き寄せられたこと。

そして。

カフェで見た、あの笑顔。

目尻がくしゃっと下がって、口元が大きく開く。

あの顔が、ずっと頭に残っていた。

写真では分からなかった。

DMでも分からなかった。

実際に会って初めて知った彼の顔だった。

「……また見たいな」

ふと、そう思った。

でも、その言葉の意味を深く考えることはしなかった。

また会えたらいい。

それだけ。

友達だって、また会いたいと思う。

仲良くなった人なら、そう思う。

だから。

やっぱり、これも普通のことだ。

そう思った。



しばらく歩いていると、会話が少なくなった。

疲れているのかもしれない。

それでも気まずくはなかった。

隣を歩いているだけで、不思議と落ち着く。

時々、彼が何か話す。

私が笑う。

私が話す。

彼が笑う。

そんな時間が続いた。

でも。

時計を見るたびに、残された時間が少なくなっていく。

「そろそろ……」

そう言いかけて、言葉を止める。

帰らなければならない。

分かっている。

なのに。

もう少しだけ、このままでいたかった。



駅が近づいてくる。

人の流れも増えてきた。

私は何となく彼の隣を歩く。

今日一日で、ずいぶん彼のことを知った気がした。

でも。

考えてみれば、まだ一度会っただけだ。

DMではずっと話していたのに。

実際に会ったのは、今日が初めて。

そして。

今日が終われば、またいつもの生活に戻る。

今までのように、画面越しの関係になる。

そう思うと。

少しだけ寂しい。



ふと、彼がこちらを見る。

「今日は楽しかった?」

「うん」

私はすぐに答えた。

「すごく楽しかった」

彼は少し笑った。

その笑顔を見て。

また胸の奥が、小さく跳ねる。

やっぱり。

この笑い方、好きだな。

そう思った。

でも。

その「好き」が何を意味するのかは、まだ分からなかった。



駅に着く。

いよいよ、本当に帰る時間だった。

私は荷物を持ち直した。

「じゃあ……」

そこまで言って。

少しだけ迷う。

「またね」

彼も笑って、

「うん、またね」

と言った。

それだけ。

たったそれだけだった。

なのに。

その言葉が、妙に心に残った。

また。

その言葉が本当に叶うのかどうかなんて、分からない。

韓国と日本。

簡単に会える距離ではない。

でも。

「またね」

と言われたことが、少し嬉しかった。



私は彼に背を向けた。

数歩進む。

そして。

なぜか、もう一度振り返った。

彼がいる。

まだこちらを見ている。

目が合う。

彼が小さく手を振った。

私も手を振り返した。

それだけで。

胸が少し温かくなった。

そして私は、今度こそ歩き出した。



帰りの飛行機に乗るまで、まだ少し時間があった。

空港へ向かう途中。

私はスマートフォンを眺めた。

今日のDM。

今日撮った写真。

何度も見返す。

彼の笑顔。

自分でも分かるくらい、そこばかり見ていた。

「……ほんと、なんだろ」

小さく笑う。

今日一日。

何度も思った。

この人、いいな。

もっと話したい。

また会いたい。

もう少し一緒にいたい。

でも。

それでもまだ。

「好き」という言葉には結びつかなかった。



空港に着く。

残り時間を確認する。

もうすぐ日本へ帰る。

そう思ったとき。

スマートフォンが震えた。

彼からだった。

今日のことについての短いメッセージ。

私は思わず笑った。

すぐに返信する。

少しだけ会話が続く。

今日一日の余韻みたいなやり取り。

その文字を眺めながら。

私はふと思った。

これからも、こうやって話せるのかな。

帰国してからも。

今までみたいに。

そうだったらいい。

そう思った。



搭乗時間が近づく。

私は最後にもう一度、スマートフォンを見た。

彼とのDMを閉じる。

画面が暗くなる。

そこに映った自分の顔を見て。

少しだけ笑った。

今日、楽しかった。

本当に。

また会いたい。

その気持ちは、確かにあった。

でも。

私はまだ知らなかった。

この日の終わりが。

自分の中にあるものを、全部ひっくり返すことになるなんて。

このときはまだ。

ただ、「また会えたらいい」と思っていただけだった。

それが恋なのかどうかなんて。

まだ、分からなかった。

そして。

このあと彼から告げられる言葉が。

そんな「分からない」を、一瞬で終わらせることになる。

私はまだ、そのことを知らないまま。

搭乗手続きを済ませた。
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