君の声
 ◇
 
 その日の夜。樹は行きつけの居酒屋の暖簾をくぐる。今日は旧友と会う約束をしていた。
「樹ーここ、ここ」
「わりぃ遅くなった」
 呼ばれた席にはすでに東堂京平(とうどうきょうへい)数原拓馬(かずはらたくま)が座っていた。拓馬はすでにビールジョッキを口にしている。
「あ、拓馬!先に始めんなよ」
「遅刻するお前が悪い」
「んだよ。大将ー俺にも生ちょうだい!」
 見知った店主に注文するとネクタイを緩める。やっと少し開放された気分になる。貼り付けた陽気なチーフプロデューサーの仮面を外せる。中学から一緒の気心の知れた友人たちの前だからこそ、余計なプライドはいらなかった。
「はい、生お待ち!」
「あ、大将ありがと。……はい! 乾杯!」
「「乾杯」」
 ジョッキをぶつけ合い、冷えたビールを喉に流し込む。いつもなら「 生き返るわ!」と大袈裟に声をあげて場を盛り上げるはずの樹だったが、不思議と今日のビールは味がしなかった。喉の奥にずっと苦いものがつっかえているような、そんな感覚。打ち消すようにビールを流し込む。運ばれてきた料理をつつきながら仕事の愚痴や近況報告をしていく。三人が揃えば自然に思い出話にも花が咲く。
 ジョッキがいくつか空き、お互いに少し酔いが回ってきた頃。二人の話に相槌を打ちながら樹はどこか上の空だった。手元ではもう何度目かの焼き鳥がくるくる回っている。
「お前、今日元気なくね? 仕事でなんかあった?」
 枝豆をつまみながら、京平が鋭く尋ねてくる。さすがに付き合いが長いだけあって、樹のほんの少しの変化を見逃さない。
「あー……いや、仕事っていうかさ」
 樹はジョッキを見つめたまま、小さく息を吐いた。親指で結露したガラスの滴を拭う。この二人の前に隠し事は無意味だと悟る。
 わざと他人のフリをしているのか、それとも本当に忘れているのか。詩織と再会したあの飲み会の日から、頭の片隅で繰り返していた疑問が、ついに口から溢れ出た。
「いや……。実はさ、今度うちでやるデカい水族館のイベントがあって」
「噂で聞いた。お前がチーフなんだろ? すげぇじゃん」
「まぁ、そうなんだけど、そうじゃないんだよ。――そこに、いるんだよ……詩織が」
 その名前が出た瞬間、それまでお気楽にグラスを傾けていた拓馬の動きが、ピタッと止まった。京平もまた、真面目な顔になって樹を見つめる。彼らは、樹があの日から、どれだけ白石詩織という存在を引きずり、彼女との日々を抱き締め必死で働いてきたかを知る数少ない証人だった。
「詩織って……大学の時に別れた?」
「……おう。最初にあったのはちょっと前のまぁ、合コンでさ。」
「マジか! じゃあ再会できたんじゃん! 良かったな!」
 拓馬が身を乗り出して自分のことのように喜ぶ。だが、樹の表情は晴れない。それどころか、泣き出しそうなのを必死に堪えるように、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「良くねぇんだよ……。信じられないわけ。目が合った瞬間、俺は心臓止まるかと思って完全にフリーズしてんのにさ。」
 樹はジョッキのビールを半分ほど一気に煽り、ガツンと机に置いた。
「あいつ、『はじめまして』って言ったんだぜ。『佐野さんって言うんですね』って。最初は他人の空似かなとか思ったけど、声がさ。詩織なんだよ。」
 トーンの落ちた声で樹は言う。あの日。樹は詩織にそう言われて泣きそうになったのだ。京平と拓馬は黙って樹の話を聞く。
「その場は合わせたよ。そしたら今度は仕事でパートナー。最初のミーティングでも背筋伸ばして『初めまして、佐野チーフプロデューサー。よろしくお願いします』だって。完璧なビジネススマイル。……あんなの、俺の知ってる詩織じゃねぇもん。事故で記憶なくしたとか言ってたけど、俺のこと忘れたのかってさ……」
 縋るような樹の視線を受け止めた京平は、拓馬と一瞬だけ視線を合わせる。別れたと聞いたあの時、樹がどんな様子だったか。言葉にすることはなくとも、奥底でどれだけ詩織を求めていたか。それを知っている二人は複雑な表情をする。
「俺らは高校卒業してから連絡取ってなかったからな」
「樹の気のせいじゃね?」
 ――詩織が樹を忘れる、そんなことあるのだろうか――
 疑問だった。傍から見る二人はそんな関係だったようには思えない。
「…………でっかいイベントなんだろ?お互いプレッシャーになってんじゃね?」
「そうそう。それにさ、仕事なら『久しぶり!』なんて訳にもいかないって」
「そう、だよな……悪い。この話はやめよう!」
 樹が取り繕うように笑う。気心知れた友人だからこそ吐露してしまったが、二人に聞いたところで仕方がないことだ。そう言い聞かせる。樹は話題を変え、明るく振る舞う。京平と拓馬は何も言及することなくその姿に合わせるように話題を変えていく。店を出る頃には詩織の話題で落ち込んでいた樹は影もなく、普段通りの姿であった。――いつもより、酔っている点を除いて。
「俺、タクシー拾ってくるわ」
 店を出た拓馬はそう言い残して大通りに向かった。樹を抱えるように京平もそのあとをゆっくりと進む。
「ったく、飲みすぎなんだよ!」
「んぁー?そんなに飲んでねぇって、アハハ」
「……それを飲んでるって言うんだよ」
 溜息を零しながら京平は樹を抱え直す。ここまで樹が酔うのも珍しいことだ。話題を変え無理に笑っていたけど詩織のことはよほど気になるのだろう。
「タクシー捕まえた。……ほら樹!しっかりしろ!」
 戻ってきた拓馬も反対側に回り二人で樹を抱え込む。タクシーに樹を押し込み住所を伝えると、タクシーを見送った。
「……珍しく飲んでたな」
「詩織ちゃんと再会したって言うんだから無理もないだろ」
 タクシーの去った方向を見つめ呟く。
「忘れちまったって、本当かな」
「さあ、どうだろうな」
 拓馬の言葉に京平が少し呆れた声で返す。二人はしばらくその場に佇み、親友を乗せたタクシーの消えた方向を見つめていた。

 
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