君の声
会議室のドアの前。少し息を整えてドアをノックする。ドアを開けると中で資料を確認していた詩織が顔を上げる。
「ごめん、待たせたよね?」
「佐野さん。お疲れ様です。すみません、早く来ちゃいました」
昨日約束した通り、彼女は少し照れくさそうに、でもちゃんと「佐野さん」と呼んでくれた。それだけで、樹の心臓は小さく跳ねる。
「お疲れ。いや、大丈夫だよ。俺も早めに始められたらいいなって思ってた。白石さん、送ってくれた修正案、あれめちゃくちゃ良かったよ」
「……え?」
敬語を外して話しかけると、詩織は一瞬だけ丸い目をさらに丸くしてフリーズした。
「あ、いや……ありがとうございます」
「あはは、何その顔。昨日『佐野さん』にしてくれたから、俺も一歩縮めてみた。ダメだった?」
わざとらしく首を傾げて覗き込むと、詩織は慌てて首を横に振る。
「いえ、ダメじゃないです。ただ、急にフランクになられたので、少しびっくりして……」
「そ? じゃあ早く慣れてね。こっちの方が仕事しやすいんだ」
そう言って笑う樹の顔はいつもの軽いものだった。
詩織の前の椅子に座ると、早速樹は切り出した。
「あれどうやって作ったの?機械音というよりは自然な施設内の音だったと思うけど」
「その通りです。昨日、社に戻ってから一つずつ削ってチェックしていました」
「細かい作業だね。ありがとう。白石さんの言葉を信じてよかったよ」
ストレートな樹の誉め言葉に、詩織はどこか擽ったさを感じた。仕事に厳しいと聞いていた佐野樹。その彼から「信じてよかった」と言ってもらえたことが、素直に嬉しかった。その言葉は、詩織にとって何より嬉しい評価だった。
二人で十分程、話を詰めていると予定時刻になり続々とメンバーが集まっていた。改めて始まった会議で樹が詩織から送られた音声データを流し、それぞれが感嘆の声を漏らす。樹だけではなくスタッフたちも納得させるものがそこにはあった。
その他にも水族館の機材配置や具体的な演出スケジュールなど、実務的な話が次々と進んでいく。その中で水族館の反響音——残響をどうコントロールするかという話題になった。
「……どうしてもガラスとコンクリートに音が跳ね返って、低音がこもってしまうんです。吸音パネルの配置を工夫するか、デモ音源の段階で少し削るか……」
資料と持参したノートパソコンを見つめる詩織の横顔に、樹はふと目を留めた。考え込むと、少しだけ視線が下がる。その仕草を樹は知っている。
雨の日の放課後。体育館の隅で二人で音を聴いていた頃の詩織と重なった。
樹は無意識にペンを指の間で回していた。考え込む時の昔からの癖だった。やがてペンを止める。
「残響、か。…」
ふと言葉が零れた。
「……そういえばさ、雨の日の体育館って、独特の響き方しなかった? 湿気で音がちょっと重くなるっていうか」
部下たちが「何の話だ?」という顔で樹を見る。確かに唐突な話題だった。けれど樹は気にせず詩織を見る。詩織の手が止まった。ゆっくり顔を上げてる。視線がぶつかった瞬間、樹の心臓が大きく跳ねた。
(……気づくか?)
高校の放課後。雨音が窓を叩く体育館。二人で並んで耳を澄ませて「今日の音、なんか違うね」なんて笑った詩織の声まで覚えている。
——けれど。
真っ直ぐにこちらを見る詩織の瞳は、仕事の話に夢中になっている時の顔だった。
真剣で、まっすぐで、今この瞬間に向き合ってる顔。
(……何やってんだ、俺)
胸の奥がちくりと痛んだ。
今の詩織は、一生懸命仕事と向き合っている。そこに自分の未練を混ぜちゃ駄目だ。
樹は小さく息を吐いた。
その瞬間——
「……! なるほど、湿度による音の減衰ですね。」
詩織は手帳にメモを書き込んでいく。
「確かに水族館内は常に湿度が高いので、晴れの日と雨の日で響き方が変わる可能性があります。盲点でした。すぐに持ち帰ってシミュレーションしてみます」
「あ……うん。そうだね、そこ、よろしく……」
引きつった笑顔のまま返す。演技でもない。他人のフリでもない。本当にただの仕事上のヒントとして、綺麗に処理されたのだと理解した瞬間だった。胸の奥がゆっくり冷えていく。
一瞬落としそうになったペンを無意識に握り直す。ただメモを取る詩織を、複雑な表情で見つめることしかできなかった。
「ごめん、待たせたよね?」
「佐野さん。お疲れ様です。すみません、早く来ちゃいました」
昨日約束した通り、彼女は少し照れくさそうに、でもちゃんと「佐野さん」と呼んでくれた。それだけで、樹の心臓は小さく跳ねる。
「お疲れ。いや、大丈夫だよ。俺も早めに始められたらいいなって思ってた。白石さん、送ってくれた修正案、あれめちゃくちゃ良かったよ」
「……え?」
敬語を外して話しかけると、詩織は一瞬だけ丸い目をさらに丸くしてフリーズした。
「あ、いや……ありがとうございます」
「あはは、何その顔。昨日『佐野さん』にしてくれたから、俺も一歩縮めてみた。ダメだった?」
わざとらしく首を傾げて覗き込むと、詩織は慌てて首を横に振る。
「いえ、ダメじゃないです。ただ、急にフランクになられたので、少しびっくりして……」
「そ? じゃあ早く慣れてね。こっちの方が仕事しやすいんだ」
そう言って笑う樹の顔はいつもの軽いものだった。
詩織の前の椅子に座ると、早速樹は切り出した。
「あれどうやって作ったの?機械音というよりは自然な施設内の音だったと思うけど」
「その通りです。昨日、社に戻ってから一つずつ削ってチェックしていました」
「細かい作業だね。ありがとう。白石さんの言葉を信じてよかったよ」
ストレートな樹の誉め言葉に、詩織はどこか擽ったさを感じた。仕事に厳しいと聞いていた佐野樹。その彼から「信じてよかった」と言ってもらえたことが、素直に嬉しかった。その言葉は、詩織にとって何より嬉しい評価だった。
二人で十分程、話を詰めていると予定時刻になり続々とメンバーが集まっていた。改めて始まった会議で樹が詩織から送られた音声データを流し、それぞれが感嘆の声を漏らす。樹だけではなくスタッフたちも納得させるものがそこにはあった。
その他にも水族館の機材配置や具体的な演出スケジュールなど、実務的な話が次々と進んでいく。その中で水族館の反響音——残響をどうコントロールするかという話題になった。
「……どうしてもガラスとコンクリートに音が跳ね返って、低音がこもってしまうんです。吸音パネルの配置を工夫するか、デモ音源の段階で少し削るか……」
資料と持参したノートパソコンを見つめる詩織の横顔に、樹はふと目を留めた。考え込むと、少しだけ視線が下がる。その仕草を樹は知っている。
雨の日の放課後。体育館の隅で二人で音を聴いていた頃の詩織と重なった。
樹は無意識にペンを指の間で回していた。考え込む時の昔からの癖だった。やがてペンを止める。
「残響、か。…」
ふと言葉が零れた。
「……そういえばさ、雨の日の体育館って、独特の響き方しなかった? 湿気で音がちょっと重くなるっていうか」
部下たちが「何の話だ?」という顔で樹を見る。確かに唐突な話題だった。けれど樹は気にせず詩織を見る。詩織の手が止まった。ゆっくり顔を上げてる。視線がぶつかった瞬間、樹の心臓が大きく跳ねた。
(……気づくか?)
高校の放課後。雨音が窓を叩く体育館。二人で並んで耳を澄ませて「今日の音、なんか違うね」なんて笑った詩織の声まで覚えている。
——けれど。
真っ直ぐにこちらを見る詩織の瞳は、仕事の話に夢中になっている時の顔だった。
真剣で、まっすぐで、今この瞬間に向き合ってる顔。
(……何やってんだ、俺)
胸の奥がちくりと痛んだ。
今の詩織は、一生懸命仕事と向き合っている。そこに自分の未練を混ぜちゃ駄目だ。
樹は小さく息を吐いた。
その瞬間——
「……! なるほど、湿度による音の減衰ですね。」
詩織は手帳にメモを書き込んでいく。
「確かに水族館内は常に湿度が高いので、晴れの日と雨の日で響き方が変わる可能性があります。盲点でした。すぐに持ち帰ってシミュレーションしてみます」
「あ……うん。そうだね、そこ、よろしく……」
引きつった笑顔のまま返す。演技でもない。他人のフリでもない。本当にただの仕事上のヒントとして、綺麗に処理されたのだと理解した瞬間だった。胸の奥がゆっくり冷えていく。
一瞬落としそうになったペンを無意識に握り直す。ただメモを取る詩織を、複雑な表情で見つめることしかできなかった。