スパダリ御曹司はスパダリ偽装妻を溺愛で囲い逃がさない
 バー88。俺がまだオリオンレジデンスホテル東京に泊まっていた時に見つけた、小洒落たバーだ。
 通りを入った小さな道沿いに佇むせいか、店内に客はいつも少ない。だがそのお店のマスターだという男性はどこか温かみを感じ、不思議な魅力を持っている。

 店の看板が小さな電灯で照らされていることにほっとして、俺は店の扉を開いた。

「いらっしゃい。おや、君は」

 彼は一度訪れただけの俺のことを、覚えていたらしい。会釈すると、彼はこちらににこりと微笑んで、カウンター席へ促してくれた。

「年末なのにお仕事ですか? 忙しいんだねえ」

 彼に言われ、苦笑いをこぼす。本当は、仕事なんてしていなくたっていいのだ。

 前回はウィスキーのハーフロックを頼んだ。「なにかホットで」と頼むと、彼はすぐにホットトディーを準備してくれえた。ウィスキーにはちみつや砂糖、レモンやスパイスを加え、お湯で割ったものだ。

「あれから、どうです?」

 マスターの手元を見ていると、不意に聞かれた。以前ここを訪れた際に、俺はマスターの人柄も相まって、「本当の自分がどれかわからなくなってしまうことがある」と、人生相談のようなものをしていたのだ。
 あの時は、アメリカから帰国して数日しかたっていなかった。日本で父や兄の圧倒的なカリスマ性を見せつけられ、自分のあり方がこれで正解なのか迷っていたのだ。

 というのも、俺は自分に自信がない。
 父も兄も、自身の才能とカリスマ性で会社を大きくし、その地位を築いている。グループ全体の会長を務める父は穏やかでありながら冷徹な視線を持ち合わせ、グループの動向を先んじて読む力に長けているし、大川電鉄社長を務める兄はサプライズ精神も旺盛で、次々と驚きのヒット企画を繰り出してきた過去がある。

 ふたりの圧倒的なオーラと実績は、俺もとても尊敬している。だからこそ、それが悩みの種でもあった。

 俺は、ふたりのようにはふるまえない。カリスマ性もオーラもない俺が世渡りのために覚えたのは、人畜無害な人物を演じることだった。信頼を寄せ、相手の期待を上回る対応をする。そうやって相手を魅了し、相手に安心感を与える。それが、俺の処世術だ。

 そんな自分は、本当の自分なのだろうか。時折不安に駆られることがあったのだが、あの時は久々に父や兄の手腕を目の当たりにして、余計に弱気になっていたのだと思う。琴子をヴィラに引き抜くために、父や兄の真似をしてしまったほどだ。

 だが、今は。

「本当の自分どころか、自分の知らない一面を次々知って、自分でも驚いているところです」

 言いながら、ついくすりと笑みがこぼれる。

< 63 / 105 >

この作品をシェア

pagetop