スパダリ御曹司はスパダリ偽装妻を溺愛で囲い逃がさない
「どれも自分である、と?」

 マスターが言いながら、俺の前にカップを置いた。白く湯気の立つカップからは、はちみつとレモンの甘酸っぱい香りと、ウィスキーの芳醇な香りが合わさって鼻に届く。

「ええ。結局、自分は自分だなと。それに、今はそれを幸せだと思えていて。それこそ、至幸です」

 言いながら、カップに口をつける。ウィスキーなのに、優しい香り。俺もこの香りのように、琴子を優しく包み込めたらいいと思う。

「お客さん、また新たな悩み事?」

 カップの中を見つめたままでいた俺に、マスターが尋ねる。

 彼はどうやら、小さな表情の変化も見逃さないらしい。すごい人だ。
 だが、今度の悩みは彼に相談すべきではない。俺は顔を上げ、マスターに微笑んだ。

「次の悩みは、自分で乗り越えるべきことです。それに、それを乗り越えようと試行錯誤している時間が楽しいので、問題ないです」
「なるほど。それは、差し出がましいことを」

 マスターはそう言ったが、その顔はどこか嬉しそうに綻んでいる。

「お客さんなら、きっと彼女の心をほぐせると思いますよ」

 マスターの言葉に、俺を思わず目を見張った。俺はいつ『彼女』のことだと告げただろうか。
 面食らっていると、彼は自身の左手の薬指を指差し、くすくす笑った。

「なんとなく、ですよ。違ったら、申し訳ない」

 マスターはそれ以上なにも言わない。だから俺も静かに、フルーティーで温かいウィスキーを嗜んだ。

 このまま、琴子の心を手に入れたい。だが、焦りすぎてはいけないとも思う。

〝視察〟の時は雰囲気にのまれ、琴子にキスをしてしまった。あの風がなかったら、俺はどうしていただろう。勢いのままに事を運ぶのは、得策ではないと思っていたのに。
 さすがに先走りすぎたと、風呂へ向かう琴子を見送りながら内心うろたえていたのは誰にも秘密だ。それほど、俺が琴子に惹かれ、触れたいと思っているのだということも。

 琴子は気が利く。だからあのキスの真相を聞いてこないし、これからも聞くことはないだろう。

 だがもし、二度目を起こしてしまったら。琴子の信頼を失い、彼女が離れてしまうようなことがあったら、俺は悔いても悔やみきれないだろう。

 焦るな。王子の笑みで、余裕を持って。
 俺はゆっくりと琴子との距離を詰めていくのだと、ホットトディーを飲みながら自分に誓う。

 この後、まさかとんでもない試練が降りかかるとは、まったく思いもせずに。

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