スパダリ御曹司はスパダリ偽装妻を溺愛で囲い逃がさない
夜の東京の街に、ひっそりと佇む『バー・88』。
ここはオリオンレジデンスホテル東京から近いにもかかわらず、職場の人と遭遇したことがない。私の見つけた、私だけのご褒美空間だ。
今日もバーの扉を開けると、こぢんまりとしたカウンターの中で、店主の牛飼マスターがグラスを磨いていた。
「いらっしゃい」
私はぺこりと頭を下げ、にこりと微笑むマスターの前に座る。それから、店内をぐるりと見回した。
小さな店内には私の座るカウンター席が五席と、後方に四人がけのテーブル席がふたつあるだけだ。
間接照明がお洒落に店内を照らし、どことなく高級感が漂う店内。だがその実、採算度外視の趣味の経営だという。
マスターは元々高校教師だったが、定年退職後にこのバーを開いたらしい。元教師というだけあり、彼にはなんとなく親のような安心感がある。
ほっとため息をこぼすと、まだなにも注文していないのに、私の前にグラスのカップが置かれた。湯気が立つそこからは、甘くて優しい香りがする。私の好きな、ティフィンミルクだ。
「なにかあったのかな?」
顔を上げると、彼は優しい笑みを浮かべていた。
「そんなに、顔に出てました?」
「まあ、なんとなくだね。僕にはわかるんだよ」
マスターはそう言って、くすりと笑った。
本当、彼には敵わない。私はそっと両手でカップを包み、ほっと吐息をこぼした。
「〝スパダリ〟って、なんなんでしょうね」
「すぱだり……?」
マスターが繰り返したので、私は「スーパーダーリンの略です」と軽く説明する。
「自分では意識していないんです。私は普通に仕事をして、先輩として後輩をフォローして、周りには心配かけないようにとふるまっているだけなんです」
マスターは黙ったまま、うんうんと頷いてくれる。
「だけど同僚に、皮肉っぽく〝スパダリ〟と言われてしまって。やっぱり、怒らせちゃったのかなあ」
ため息が再びこぼれそうになり、私はそれをティフィンミルクに受け止めてもらった。柔らかな紅茶の香りが、口の中から鼻に届く。ごくりと飲み込むと、すっと気持ちが落ち着いていくような気がした。
「くよくよしていたらダメですね。すみません、明日からも頑張ります」
すると、マスターはくすくす笑った。
「琴子ちゃんはひとりでエベレスト登頂に挑戦しても、きっと易々と戻ってこられちゃうと思う。だけど、どんなにすごい登山家でも、装備は必要だよ」
「え……?」
目の前のマスターを見上げるも、彼は微笑むだけで、それ以上はなにも言わない。
エベレストに登ろうと思ったことはないが、きっと彼の言いたいことはそういうことではないだろう。
では、マスターはいったいなにを言いたかったのだろう。そんなことを考えつつ、私はバーでのゆっくりと流れる時間を過ごした。
ここはオリオンレジデンスホテル東京から近いにもかかわらず、職場の人と遭遇したことがない。私の見つけた、私だけのご褒美空間だ。
今日もバーの扉を開けると、こぢんまりとしたカウンターの中で、店主の牛飼マスターがグラスを磨いていた。
「いらっしゃい」
私はぺこりと頭を下げ、にこりと微笑むマスターの前に座る。それから、店内をぐるりと見回した。
小さな店内には私の座るカウンター席が五席と、後方に四人がけのテーブル席がふたつあるだけだ。
間接照明がお洒落に店内を照らし、どことなく高級感が漂う店内。だがその実、採算度外視の趣味の経営だという。
マスターは元々高校教師だったが、定年退職後にこのバーを開いたらしい。元教師というだけあり、彼にはなんとなく親のような安心感がある。
ほっとため息をこぼすと、まだなにも注文していないのに、私の前にグラスのカップが置かれた。湯気が立つそこからは、甘くて優しい香りがする。私の好きな、ティフィンミルクだ。
「なにかあったのかな?」
顔を上げると、彼は優しい笑みを浮かべていた。
「そんなに、顔に出てました?」
「まあ、なんとなくだね。僕にはわかるんだよ」
マスターはそう言って、くすりと笑った。
本当、彼には敵わない。私はそっと両手でカップを包み、ほっと吐息をこぼした。
「〝スパダリ〟って、なんなんでしょうね」
「すぱだり……?」
マスターが繰り返したので、私は「スーパーダーリンの略です」と軽く説明する。
「自分では意識していないんです。私は普通に仕事をして、先輩として後輩をフォローして、周りには心配かけないようにとふるまっているだけなんです」
マスターは黙ったまま、うんうんと頷いてくれる。
「だけど同僚に、皮肉っぽく〝スパダリ〟と言われてしまって。やっぱり、怒らせちゃったのかなあ」
ため息が再びこぼれそうになり、私はそれをティフィンミルクに受け止めてもらった。柔らかな紅茶の香りが、口の中から鼻に届く。ごくりと飲み込むと、すっと気持ちが落ち着いていくような気がした。
「くよくよしていたらダメですね。すみません、明日からも頑張ります」
すると、マスターはくすくす笑った。
「琴子ちゃんはひとりでエベレスト登頂に挑戦しても、きっと易々と戻ってこられちゃうと思う。だけど、どんなにすごい登山家でも、装備は必要だよ」
「え……?」
目の前のマスターを見上げるも、彼は微笑むだけで、それ以上はなにも言わない。
エベレストに登ろうと思ったことはないが、きっと彼の言いたいことはそういうことではないだろう。
では、マスターはいったいなにを言いたかったのだろう。そんなことを考えつつ、私はバーでのゆっくりと流れる時間を過ごした。