見積もりには書けないもの

第十一話 『壁の隙間』

『つい、楽し過ぎちゃって……ごめんなさい』

ふと現実に戻ったような森下さんが、少し照れたように笑った。

『もうお昼の時間ですよね。お腹空いちゃったでしょ』

優しく俺を気遣ってくれる。

『大丈夫ですよ、森下さん。いつも区切りの良いところがお昼ですから、私はお構いなく……』

そう言いながら、俺は時計に目をやった。

『でも、森下さんがお腹減っちゃいますよね。こちらこそ長々とすみません。今日は一旦ここで終わりにしましょう』

言いたくないのに、カッコつけてる俺がいた。

「終わりにしましょうか?」

で、いいだろ。

せめて……なんだよ。

「終わりにしましょう」って……。

俺は心の中で、もう一人の俺に軽い説教をした。

純粋に楽しかった。

この時間が。

本当に、ただただ楽しい時間を過ごしていた。

それは勘違いでもなかった。

森下さんの仕草や態度からも、それははっきりと伝わっていた。

もし俺が今、高校生で。

同級生の森下と、こんな時間を過ごしていたら――

間違いなく好きになっていただろう。

でも、今は違う。

超えちゃいけない一線がある。

立てなきゃいけない壁がある。

そう自分に言い聞かせながら、俺は荷物をまとめ、帰り支度を始めた。

『次も予定あるんですよね……』

森下さんが、少し寂しそうに聞いてきた。

『そっか……ごめんなさい』

後ろ髪を引かれるような目で俺を見つめる森下さんが、路頭に迷う子猫に見えた。

『あ、いや……予定は無いんですけど。さすがにご迷惑かなと……』

俺はカッコつけたくせに、自ら壁の隙間を広げていた。

いや。

多分その時の俺は、ダサいと思われようが、進んでスペースを用意していたんだと思う。

そんな俺に乗っかるように、森下さんもすぐに話し始めた。

『良かった!』

少しだけ嬉しそうな声だった。

『あのね、迷惑じゃなかったら……昨日、作り過ぎちゃったミートソースがあるの。一緒に食べません?』

『いいんですか?!』

思わず声が弾んだ。

『ありがとうございます!』

明らかにテンションが上がっていた。

なんだか、もぎたてのブルーベリーを食べた時のような甘酸っぱさ。

何十年も前に味わった、あの頃のドキドキ感。

今、二人がいるこの空間に、何故か大音量であの頃の曲が流れているような気がした。

嬉しい。

楽しい。

ただ、この感情に全てを任せちゃダメなんだ。

あの日のキスの意味を、やっぱり聞かなかった。

斎藤さん……。

いや。

教えてよ。

……やっぱ、いいや。

超えちゃいけない一線がある。

立てなきゃいけない壁がある。

あの日の壁の意味。

ドキドキに浮かれながらも、冷静でいろと自分に言い聞かせている俺の前に、

ミートソースパスタとサラダが並べられた。
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