黒衣の法官は春花に恋う
一章 諦めの悪い伯爵令嬢
目の前に現れた書類の山を、避ける余裕などなかった。
「きゃっ……!」
「おや」
肩がぶつかった途端、青年の両腕に抱えられていた紙束が大きく傾き、乾いた音を立てながら回廊の床へ散らばっていく。見るからに重要そうな書類が磨き上げられた石床を滑り、そのうちの一枚が春風に攫われるようにして窓辺まで運ばれていった。
「ご、ごめんなさい!」
リナリアは慌ててその紙を追いかけ、今にも外に飛んでいきそうになっていた端を押さえると、風に煽られながら拾い上げた。
長官室を出てからというもの、考えていたのは父のことばかりで、俯いたまま歩いていた自分が悪い。皇城の中で誰かにぶつかっただけでも申し訳ないというのに、これほど大量の書類を床へ撒いてしまうとは思わず、青ざめながら青年のもとへ戻った。
「本当に申し訳ありません。大切な書類ですよね」
「ええ。ですが、中身が無事なら問題ありませんよ」
怒鳴られることを覚悟しながら顔を上げると、焦げ茶色の髪をした青年が、責めるどころか困ったように笑っている。
「こちらこそ申し訳ありません。書類に埋もれて、ほとんど前が見えておりませんでした」
「ですが、私は俯いて歩いていましたから」
「では、お互いに前を見ていなかったということにいたしましょう」
青年はそう言うと、足元に散らばった紙へ手を伸ばした。
責められなかったことに安堵しながら、リナリアもその場に膝を折り、一枚ずつ書類を拾い集めていく。内容が目に入らないよう表を伏せ、同じ大きさのものを揃えながら重ねていると、向かいにいた青年が感心したように目を細めた。
「ご配慮ありがとうございます」
「父の帳簿を手伝う時にも、他家の取引に関するものは勝手に見ないよう、執事から教えられておりましたので」
「お父上のお仕事を手伝っておられるのですか?」
「時々ですが」
祖父が領主を務めていた頃から、ベルクール伯爵家の帳簿は決して分かりやすいものではなかった。
返済を待っている貸付金に、困窮した領民のため減らした税、父が自ら負担した薬や食料の代金。返済期限を過ぎても、もう少しだけ待ってほしいと頼まれれば断ることができず、代わりに品物を持ってこられれば、その価値も曖昧なまま受け取ってしまう。そのたび新しい覚え書きが増え、ただでさえ複雑な帳簿は、本人以外にはますます分かりにくいものになっていった。
父が人を助けようとすることを嫌だと思ったことはないし、その優しさを誇らしく感じてもいる。
けれど、帳簿の数字が合わなくなるたび、執事のバートンと二人で夜遅くまで原因を探さなければならないのだから、娘として少しくらい困らされていると思うことくらいは許されるだろう。
最後の紙を拾い上げて青年に差し出そうとしたところで、その視線がふとリナリアの顔に留まっていることに気がついた。
「きゃっ……!」
「おや」
肩がぶつかった途端、青年の両腕に抱えられていた紙束が大きく傾き、乾いた音を立てながら回廊の床へ散らばっていく。見るからに重要そうな書類が磨き上げられた石床を滑り、そのうちの一枚が春風に攫われるようにして窓辺まで運ばれていった。
「ご、ごめんなさい!」
リナリアは慌ててその紙を追いかけ、今にも外に飛んでいきそうになっていた端を押さえると、風に煽られながら拾い上げた。
長官室を出てからというもの、考えていたのは父のことばかりで、俯いたまま歩いていた自分が悪い。皇城の中で誰かにぶつかっただけでも申し訳ないというのに、これほど大量の書類を床へ撒いてしまうとは思わず、青ざめながら青年のもとへ戻った。
「本当に申し訳ありません。大切な書類ですよね」
「ええ。ですが、中身が無事なら問題ありませんよ」
怒鳴られることを覚悟しながら顔を上げると、焦げ茶色の髪をした青年が、責めるどころか困ったように笑っている。
「こちらこそ申し訳ありません。書類に埋もれて、ほとんど前が見えておりませんでした」
「ですが、私は俯いて歩いていましたから」
「では、お互いに前を見ていなかったということにいたしましょう」
青年はそう言うと、足元に散らばった紙へ手を伸ばした。
責められなかったことに安堵しながら、リナリアもその場に膝を折り、一枚ずつ書類を拾い集めていく。内容が目に入らないよう表を伏せ、同じ大きさのものを揃えながら重ねていると、向かいにいた青年が感心したように目を細めた。
「ご配慮ありがとうございます」
「父の帳簿を手伝う時にも、他家の取引に関するものは勝手に見ないよう、執事から教えられておりましたので」
「お父上のお仕事を手伝っておられるのですか?」
「時々ですが」
祖父が領主を務めていた頃から、ベルクール伯爵家の帳簿は決して分かりやすいものではなかった。
返済を待っている貸付金に、困窮した領民のため減らした税、父が自ら負担した薬や食料の代金。返済期限を過ぎても、もう少しだけ待ってほしいと頼まれれば断ることができず、代わりに品物を持ってこられれば、その価値も曖昧なまま受け取ってしまう。そのたび新しい覚え書きが増え、ただでさえ複雑な帳簿は、本人以外にはますます分かりにくいものになっていった。
父が人を助けようとすることを嫌だと思ったことはないし、その優しさを誇らしく感じてもいる。
けれど、帳簿の数字が合わなくなるたび、執事のバートンと二人で夜遅くまで原因を探さなければならないのだから、娘として少しくらい困らされていると思うことくらいは許されるだろう。
最後の紙を拾い上げて青年に差し出そうとしたところで、その視線がふとリナリアの顔に留まっていることに気がついた。