黒衣の法官は春花に恋う
「……どうかなさいましたか?」
「いえ。この辺りで女性にお会いするのは珍しいと思いまして」
「女性は入ってはいけない場所なのですか?」
「そのようなことはありません。ただ、この先には刑務省があるでしょう? 用のない方が訪れる場所ではありませんからね」
「私は罪を犯していません!」

 反射的に言い返すと、青年は一度目を丸くし、それから声を立てずに笑った。

「貴女が捕らえられた方だと思ったわけではありませんよ。泣いておられたので、何かあったのかと」
「……すみません」

 リナリアは頬に触れた。袖で拭ったはずなのに、目元にはまだ涙の痕が残っていたのだろうか。

「ご家族が、刑務省に?」

 穏やかな声音で尋ねられ、リナリアは一瞬だけ視線を彷徨わせた。
 見知らぬ相手に話してよいことなのかは分からない。けれど、ベルクール伯爵家の当主が刑務省へ連行されたことなど、早晩社交界にも広まるだろう。それに、父の無実を証明するために動くのなら、いつまでも隠しておけることでもない。

「父が、昨夜連れていかれたのです。ベルクール伯爵家当主、ローエン・ベルクールと申します」

 書類を拾っていた青年の手が止まる。

「軍需物資の横流しに関わった疑いを掛けられている方、ですね」
「父は関わっておりません」

 すぐさま否定すると、青年は驚くこともなく、静かな眼差しをリナリアへ向けた。

「ですが、父の署名がある書類や伯爵家の印章、それに口座へ入ったお金まで見つかったそうです。先ほど刑務省長官様にお会いして、父が騙されたというのなら、その証拠を持ってくるよう言われました」
「セティ殿に会われたのですか?」
「ご存じなのですか?」
「ええ。仕事柄、毎日のように顔を合わせますから」

 見知らぬ相手に愚痴をこぼすべきではないことくらい分かっている。それでも、長官室で受けた衝撃を誰かに確かめずにはいられなかった。

「あの方は、いつもあのような話し方をなさるのですか?」
「と、言いますと?」
「騙される方が悪いと仰ったうえ、私が話している途中まで本を読んでいたのです」
「ふふっ、残念ですがいつも通りですね。セティ殿は誰に対してもああなのです」

 青年は苦笑を浮かべ、少しばかり困ったように息をついた。

「陛下が内容を確かめずに書類へ署名なさろうとした際には、『帝国ごと崖から落ちたいのですか』と尋ねておられました」
「……処罰されなかったのですか?」
「陛下も、ご自身の落ち度を分かっておられましたから」

 さらりと言われ、リナリアは返す言葉を失った。
 皇帝に向かって、帝国ごと崖から落ちたいのかと尋ねる者がいることにも驚いたが、あの黒衣の青年ならば確かに言いかねないと思えてしまうところが、何より恐ろしい。
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