黒衣の法官は春花に恋う
建国祭を終えたばかりの庭には、まだ祝いの名残がそこかしこに残っていた。植え込みの間では淡い色の旗が風に揺れ、春の陽を浴びた花壇には色とりどりの花が咲き、開け放たれた窓から入り込む空気に冬の冷たさはもうほとんど残っていない。
皇城のどこへ目を向けても、穏やかな季節が訪れたことを感じられる。
そんな景色のすぐ傍で、父は今、刑務省に拘束されている。
昨日までなら春が来たと喜んでいたはずなのに、今日は咲き誇る花の色さえ、どこか遠いもののように見えた。
「お父上に署名を頼んだ商人について、何か心当たりは?」
隣から掛けられた声に、リナリアは窓の外から視線を戻した。
「まだ分かりません。けれど執事に聞けば、帳簿や手紙の中から見つけられるかもしれません。父自身はあまり記録を整理しませんが、執事のバートンなら、貸したお金も領民のために減らした税も、必ず帳簿に書き留めていますから」
「随分と複雑そうですねぇ」
「とても。父は返してもらうつもりで貸したお金と、初めから返済を求めていないお金を同じ帳簿に書こうとするんです。代わりに品物で返された時も、その価値が分からないまま済ませようとしますし」
「それを貴女が整理していたのですか?」
「バートンと一緒にですが。何度計算しても数字が合わず、夜まで掛かることもありました」
「それは大変でしたねぇ」
青年の声には、思っていた以上に深い同情が滲んでいる。
それがおかしくて少し笑うと、先ほどまで重たかった書類が、少しだけ軽くなったような気がした。
広い階段を上り、幾つかの回廊を曲がった先で、青年は一つの扉の前で足を止めた。
重厚な扉の上には、帝国の紋章と共に宰相室と刻まれた札が掲げられている。
「……宰相室?」
「ええ。こちらです」
「貴方様は、宰相室で働いていらっしゃるのですね」
「働いていると申しますか」
青年は片腕で器用に扉を開けると、リナリアを先に通した。
一歩足を踏み入れたところで、思わず立ち止まる。
広い執務室には、先ほど回廊で落としたものとよく似た書類の束が、机だけではなく棚の前や長椅子の端にまで積み上げられていた。片づけられるのを待っているというより、置き場所を失った紙の山が、少しずつ部屋そのものを侵食しているようにさえ見える。
「こちらにお願いいたします」
青年は慣れた様子で机の端に置かれていた本を避け、空いた場所に紙束を下ろした。
リナリアも示された場所へ慎重に書類を置き、ようやく両腕から重さが消えたところで、机上にある一通の封筒が目に入る。
皇帝に直接提出される書類にのみ用いられる、金色の印が押されていた。
慌てて視線を逸らしたリナリアに、青年は机の向こうへ回りながら口を開く。
皇城のどこへ目を向けても、穏やかな季節が訪れたことを感じられる。
そんな景色のすぐ傍で、父は今、刑務省に拘束されている。
昨日までなら春が来たと喜んでいたはずなのに、今日は咲き誇る花の色さえ、どこか遠いもののように見えた。
「お父上に署名を頼んだ商人について、何か心当たりは?」
隣から掛けられた声に、リナリアは窓の外から視線を戻した。
「まだ分かりません。けれど執事に聞けば、帳簿や手紙の中から見つけられるかもしれません。父自身はあまり記録を整理しませんが、執事のバートンなら、貸したお金も領民のために減らした税も、必ず帳簿に書き留めていますから」
「随分と複雑そうですねぇ」
「とても。父は返してもらうつもりで貸したお金と、初めから返済を求めていないお金を同じ帳簿に書こうとするんです。代わりに品物で返された時も、その価値が分からないまま済ませようとしますし」
「それを貴女が整理していたのですか?」
「バートンと一緒にですが。何度計算しても数字が合わず、夜まで掛かることもありました」
「それは大変でしたねぇ」
青年の声には、思っていた以上に深い同情が滲んでいる。
それがおかしくて少し笑うと、先ほどまで重たかった書類が、少しだけ軽くなったような気がした。
広い階段を上り、幾つかの回廊を曲がった先で、青年は一つの扉の前で足を止めた。
重厚な扉の上には、帝国の紋章と共に宰相室と刻まれた札が掲げられている。
「……宰相室?」
「ええ。こちらです」
「貴方様は、宰相室で働いていらっしゃるのですね」
「働いていると申しますか」
青年は片腕で器用に扉を開けると、リナリアを先に通した。
一歩足を踏み入れたところで、思わず立ち止まる。
広い執務室には、先ほど回廊で落としたものとよく似た書類の束が、机だけではなく棚の前や長椅子の端にまで積み上げられていた。片づけられるのを待っているというより、置き場所を失った紙の山が、少しずつ部屋そのものを侵食しているようにさえ見える。
「こちらにお願いいたします」
青年は慣れた様子で机の端に置かれていた本を避け、空いた場所に紙束を下ろした。
リナリアも示された場所へ慎重に書類を置き、ようやく両腕から重さが消えたところで、机上にある一通の封筒が目に入る。
皇帝に直接提出される書類にのみ用いられる、金色の印が押されていた。
慌てて視線を逸らしたリナリアに、青年は机の向こうへ回りながら口を開く。