黒衣の法官は春花に恋う
「申し遅れました。私はエヴァン・セネリオと申します」
「セネリオ……」

 聞き覚えのある家名である。現皇帝陛下が即位した際、宰相に任じられた人もセネリオ家の出身ではなかっただろうか。
 そこまで考えたところで、リナリアはゆっくりと青年に顔を向けた。

「まさかですが、宰相閣下……?」
「はい」

 エヴァンは先ほどまでと変わらない穏やかな笑みで頷いた。

「えええっ!」

 驚きのあまり、声が執務室いっぱいに響き渡る。

「そ、その……大変失礼いたしました! 廊下でぶつかって、書類を運ばせてしまって、それに刑務省長官様への不満まで……」
「廊下でぶつかったのはお互いさまですし、書類を運んでくださったのは貴女ですよ。今も十分丁寧にお話しくださっていますから、どうぞそのままで」

 エヴァンは可笑しそうに目を細めると、机の前にある椅子を示した。

「よろしければ、お掛けください。お茶をお出ししたいところですが、茶器がどこに埋もれているのか分かりませんので」
「宰相室で、そのようなことがあるのですか?」
「補佐官が南方へ赴任してしまいましてねぇ。各省の官も手伝ってくれますが、最終的に戻ってくる書類が多く、片づけるところまではなかなか手が回らないのですよ」

 言われて見れば、今にも崩れそうな紙束が机の端で危うく傾いている。

「少し、整えてもよろしいですか?」
「お客様にそのようなことをさせるわけには」
「先ほど運ぶのをお手伝いしたばかりです。それに、このままでは落ちます」

 返事を待たずに立ち上がり、傾いた束をいったん机に下ろした。
 赤い紐で綴じられたもの、黒い紐で綴じられたもの、封筒へ入れられているもの。書かれている内容を不用意に読まないよう注意しながら、外見だけで種類を分けていく。

「手慣れておられますねぇ」
「父の机も、よくこのような状態になっておりますから」
「同じですか?」
「ここまでではありません」
「それは安心しました」

 果たして安心してよいことなのだろうか。
 そう思いながら、リナリアは崩れかけていた束を整えた。
 エヴァンはその間、机上に残された別の書類へ目を通していたが、ふと何かに気づいたように顔を上げる。

「リナリア嬢。皇城に通う方法を考えておられたのではありませんか」

 突然言い当てられ、リナリアは手を止めた。

「セティ殿に見つけた証拠を直接持っていくおつもりなのでしょう? ですが皇城は、誰でも自由に出入りできる場所ではありません。今日のように門前で押し問答を続けるわけにもいかない」

 全て見透かされている。リナリアは整えた書類から手を離し、身体ごとエヴァンに向き直った。
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