『十五年越しの願いは、歪んだ家族に砕かれて――身ごもり秘書は幼馴染CEOの重すぎる執着愛から逃げられない』
番外編 ――お姉ちゃんは、今日も元気です――
あれから時は流れ、麗らかな陽射しの中を淡い桜の花びらが舞う春がやってきた。
そして今日も、我が家の朝は相変わらず賑やかだった。
「ママー!」
階段の上から元気な声が飛んできたかと思えば、今度は反対側から「パパー!」と呼ぶ声が響く。
「はーい!」
「いる」
さらに間髪入れず、玄関の方から「ジィジー!」と声が上がった。
「今行く!」
……お父様。
返事だけなら、誰より早い。
その直後、廊下の向こうから、どたどたどた、と家の中を揺らしそうな勢いの足音が近づいてきた。
「梨杏、先に行くねー!」
「待ちなさい!」
勢いよくリビングへ飛び込んできた梨杏の姿を見て、私は思わず笑ってしまった。
ぴかぴかの制服に真新しい靴。そして背中には、どう見ても本人より存在感のある大きな赤いランドセル。背負っているというより、ほとんどランドセルに背負われているように見える。
昨日、入学式を終えたばかりの小学一年生。
三月に六歳になった梨杏は、新しい制服もランドセルも、これから始まる学校生活も、何もかもが嬉しくて仕方がないらしい。
「ジィジー! 早くー!」
玄関から急かす声が響く。
「今行くと言っている!」
廊下の向こうから返事をしたお父様の声を聞きながら、私はふと眉を寄せた。
「梨杏」
「なあに?」
「今日、歩いて学校まで行くんじゃなかった?」
「うん!」
迷いなく返事をする娘に、私はますます首を傾げる。
「じゃあ、何でジィジを急かしてるの?」
梨杏は、何を聞かれているのか分からないという顔できょとんとした。
「だって、学校まで乗せてもらうから」
「……」
私はゆっくりと視線を上げた。
ちょうどジャケットを羽織りながら現れたお父様は、まるで何の問題もないと言いたげな顔をしている。
「お父様」
「何だ」
「小学校、歩いて行ける距離だよね?」
「ああ」
「何で車なの?」
「初登校だからだ」
「昨日も車だったよね?」
「昨日は入学式だった」
「明日は?」
「荷物が多いかもしれない」
「明後日は?」
「雨が降るかもしれない」
「晴れ予報だけど?」
「天気など変わる」
……駄目だ。
完全に梨杏専属運転手になっている。
もっとも本人は、孫の送り迎えができることが嬉しくて仕方がないらしく、自分が見事なまでにアッシー扱いされていることなど、欠片も気づいていないのかもしれない。
「ジィジ、早くー!」
「はいはい」
今度は返事まで妙に柔らかい。
鷹宮グループの会長として会社にいる時は、今でも十分すぎるほど威厳のある人なのに、孫の前では見る影もない。
「さっちゃーん!」
今度は梨杏が厨房の方へ向かって叫ぶと、佐知子さんがひょいと顔を出した。
「はいはい」
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい。車から降りたら、ちゃんと先生のお話を聞くんですよ」
「はーい!」
「ランドセルを振り回さない」
「はーい!」
「走らない」
「はーい!」
返事だけは完璧だ。
守るかどうかは、また別の問題だけれど。
「ママ!」
「何?」
「行ってくる!」
私は玄関まで歩いていき、梨杏の前で少しだけ腰を落とすと、ずれていたランドセルの肩紐を直した。
「行ってらっしゃい。困ったことがあったら、ちゃんと先生に言うんだよ。お友達とも仲良くね」
「分かってるって!」
「それから――」
もう一言何か伝えようとした、そのときだった。
「男にはついていくな」
横から低い声が割り込んできた。
私はゆっくり振り返る。
「遼河さん」
「何だ」
「小学一年生」
「分かってる」
「何の心配してるの」
「今から言っておく必要がある」
「ありません!」
六年経っても、この人は何も変わっていない。
特に娘に関してだけは、恐ろしいほどに。
「パパ、心配しすぎー!」
梨杏にまで笑われ、遼河さんは僅かに眉を寄せた。
「お前はもう少し警戒しろ」
「はーい」
……絶対、聞いていない。
梨杏はそんな父親の言葉をさらりと流すと、お父様の手を取った。
「ジィジ、行こ!」
「はいはい」
「いってきまーす!」
赤いランドセルを揺らしながら、梨杏が春の陽射しの中へ飛び出していく。
庭先の桜が風に揺れ、舞い落ちた花びらが小さな背中へふわりと降り注いだ。
私はその姿を、しばらく黙って見送った。
六年前まで腕の中にすっぽり収まっていた赤ちゃんが、今日からランドセルを背負い、自分の世界へ歩き出していく。
これから少しずつ、私の知らない友達ができて、私の知らない出来事を経験して、私の知らない場所を自分の足で歩いていくのだろう。
そう思うと嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけ寂しくて、それ以上に温かくなる。
――まあ。
学校までは、ジィジの車だけど。
そして今日も、我が家の朝は相変わらず賑やかだった。
「ママー!」
階段の上から元気な声が飛んできたかと思えば、今度は反対側から「パパー!」と呼ぶ声が響く。
「はーい!」
「いる」
さらに間髪入れず、玄関の方から「ジィジー!」と声が上がった。
「今行く!」
……お父様。
返事だけなら、誰より早い。
その直後、廊下の向こうから、どたどたどた、と家の中を揺らしそうな勢いの足音が近づいてきた。
「梨杏、先に行くねー!」
「待ちなさい!」
勢いよくリビングへ飛び込んできた梨杏の姿を見て、私は思わず笑ってしまった。
ぴかぴかの制服に真新しい靴。そして背中には、どう見ても本人より存在感のある大きな赤いランドセル。背負っているというより、ほとんどランドセルに背負われているように見える。
昨日、入学式を終えたばかりの小学一年生。
三月に六歳になった梨杏は、新しい制服もランドセルも、これから始まる学校生活も、何もかもが嬉しくて仕方がないらしい。
「ジィジー! 早くー!」
玄関から急かす声が響く。
「今行くと言っている!」
廊下の向こうから返事をしたお父様の声を聞きながら、私はふと眉を寄せた。
「梨杏」
「なあに?」
「今日、歩いて学校まで行くんじゃなかった?」
「うん!」
迷いなく返事をする娘に、私はますます首を傾げる。
「じゃあ、何でジィジを急かしてるの?」
梨杏は、何を聞かれているのか分からないという顔できょとんとした。
「だって、学校まで乗せてもらうから」
「……」
私はゆっくりと視線を上げた。
ちょうどジャケットを羽織りながら現れたお父様は、まるで何の問題もないと言いたげな顔をしている。
「お父様」
「何だ」
「小学校、歩いて行ける距離だよね?」
「ああ」
「何で車なの?」
「初登校だからだ」
「昨日も車だったよね?」
「昨日は入学式だった」
「明日は?」
「荷物が多いかもしれない」
「明後日は?」
「雨が降るかもしれない」
「晴れ予報だけど?」
「天気など変わる」
……駄目だ。
完全に梨杏専属運転手になっている。
もっとも本人は、孫の送り迎えができることが嬉しくて仕方がないらしく、自分が見事なまでにアッシー扱いされていることなど、欠片も気づいていないのかもしれない。
「ジィジ、早くー!」
「はいはい」
今度は返事まで妙に柔らかい。
鷹宮グループの会長として会社にいる時は、今でも十分すぎるほど威厳のある人なのに、孫の前では見る影もない。
「さっちゃーん!」
今度は梨杏が厨房の方へ向かって叫ぶと、佐知子さんがひょいと顔を出した。
「はいはい」
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい。車から降りたら、ちゃんと先生のお話を聞くんですよ」
「はーい!」
「ランドセルを振り回さない」
「はーい!」
「走らない」
「はーい!」
返事だけは完璧だ。
守るかどうかは、また別の問題だけれど。
「ママ!」
「何?」
「行ってくる!」
私は玄関まで歩いていき、梨杏の前で少しだけ腰を落とすと、ずれていたランドセルの肩紐を直した。
「行ってらっしゃい。困ったことがあったら、ちゃんと先生に言うんだよ。お友達とも仲良くね」
「分かってるって!」
「それから――」
もう一言何か伝えようとした、そのときだった。
「男にはついていくな」
横から低い声が割り込んできた。
私はゆっくり振り返る。
「遼河さん」
「何だ」
「小学一年生」
「分かってる」
「何の心配してるの」
「今から言っておく必要がある」
「ありません!」
六年経っても、この人は何も変わっていない。
特に娘に関してだけは、恐ろしいほどに。
「パパ、心配しすぎー!」
梨杏にまで笑われ、遼河さんは僅かに眉を寄せた。
「お前はもう少し警戒しろ」
「はーい」
……絶対、聞いていない。
梨杏はそんな父親の言葉をさらりと流すと、お父様の手を取った。
「ジィジ、行こ!」
「はいはい」
「いってきまーす!」
赤いランドセルを揺らしながら、梨杏が春の陽射しの中へ飛び出していく。
庭先の桜が風に揺れ、舞い落ちた花びらが小さな背中へふわりと降り注いだ。
私はその姿を、しばらく黙って見送った。
六年前まで腕の中にすっぽり収まっていた赤ちゃんが、今日からランドセルを背負い、自分の世界へ歩き出していく。
これから少しずつ、私の知らない友達ができて、私の知らない出来事を経験して、私の知らない場所を自分の足で歩いていくのだろう。
そう思うと嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけ寂しくて、それ以上に温かくなる。
――まあ。
学校までは、ジィジの車だけど。