【完結済】すべて失った廃妃のはずが、隣国で幸せになりました ~ 追放先で加護の力が復活し、新王妃として大歓迎されています ~
23.(sideセルジュ)
王宮の執務室。書類から顔を上げた俺は、深く息をつく。そして窓の外が真っ暗なことに、ようやく気付いた。奥のテーブルに置いてある軽食は、とうに冷めきっていることだろう。
各国から送られてくる書簡の返事。早くこれらを片付け、国内の報告書の確認に移らなくては。だが捌いても捌いても、新たな書類は日々積み上がる。
疲労が溜まった頭に靄がかかる。気合いを入れ直すようその頭を軽く振り、俺はもう一度机上の書類に目を通すべく、視線を落とした。
その時だった。
「失礼いたします」
扉の向こうから聞こえる、静かながらも腹の底に響く低い声。
騎士団長のヴォルグ・ブレイスだとすぐに分かった。
「入れ」
短く答えると、すぐに扉が開いた。無愛想な大男は見た目に似合わぬ洗練された所作で、こちらへと近付く。
「……彼女の様子はどうだ」
一言話すだけでもため息が漏れる。……いかん。いい加減睡眠をとらねば。これ以上回らぬ頭を酷使すれば、取り返しのつかない失敗をしてしまいそうだ。
ブレイスはその黄金色の目で俺をじっと見た後、妃からの報告書をこちらに手渡しながら話しはじめた。
「今週は王都の救護院三ヶ所と、児童養護施設四ヶ所を再訪されました。他、王都近郊の集落や炊き出し所も視察されております」
聞き漏らさぬよう、俺は報告書に視線を落としたままブレイスの言葉に耳を傾ける。
このオルセリエに嫁いできて以来二度だけ対面した妃、アリスティーヌの顔が、脳裏をよぎった。
「整理した収容人数と配給量の記録をもとに、各施設の不足分を調整しておられます。王宮備蓄庫から回された小麦と塩は、すでに各所に行き渡りました」
「……そうか」
「はい。限られた人数ではありますが、医師らによる各施設の巡回も再開しました。また、数ヶ所の空き地についても整備が始まり、働ける者を集め、小規模ながら耕作の準備を進めております」
「……」
内心、舌を巻いていた。嫁いできて日が浅い我が正妃は、この短期間で予想していたよりもはるかに成果を上げつつある。まさかここまで本気で働いてくれるとは考えていなかった。
(特別な加護の力を持って生まれた、中堅国エヴァンシアの、高位貴族家の令嬢。そのうえ王妃に迎えられたとなれば、さぞや気位ばかり高い女であろうと思っていたが……)
他国から突然送り込まれた妃。そこにどんな思惑が絡んでいるかも分からぬ以上、こちらの内部事情に首を突っ込ませるわけにもいかない。そう考え部屋だけを与え、ただ大人しく過ごさせていた。
ところが彼女は、嫁いできてわずか一週間後には、仕事を与えてほしいと主張してきたのだ。
彼女を財政や外交関係から遠ざけるため、俺は市井での役目を命じた。正直、その働きにさほど期待していたわけではなかった。
だがこのふた月以上、ブレイスから上がってくる毎週の報告を聞くたびに、俺は驚いていた。妃は各施設の劣悪な環境を、着実に改善している。
ブレイスが言葉を続けた。
「これまでもご報告申し上げてきたように、当初はどの施設を訪問しても、民たちからの敵意と憎悪を向けられるばかりでした。ですが、妃陛下の真摯な取り組みは、確実に彼らの心を動かしています。今では妃陛下が姿を見せると、皆の表情が明るくなり、子どもたちなど駆け寄ってくるようにまでなりました」
「……そうか」
報告書に並ぶ彼女自身の丁寧な筆跡を追いながら、狐につままれた心地になる。
あの女は、一体何が目的なのだろうか。
エヴァンシアでは十分に得ることのできなかった王妃としての名声を、我が国で得ようとしている……?
それだけにしては、随分とひたむきだ。
結婚式も、披露目の場も望まない。こちらからはドレスの一つさえ贈ることもできていない。そのことに対し、不満を漏らしたという話も聞かない。
決して豪華ではない食事もその他の待遇も、あの女は文句一つ言わず受け入れている。
それどころかこの報告書には、現状の改善案の一つとして、王宮の支出の見直しが提案されていた。
王宮で使用している備品や消耗品の費用を切り詰め、その分を民間の各施設へ配る薬や食料、医師の巡回費用として充てるべきだとある。
そして最後に、こう書かれていた。
『王妃用の予算が余分に組まれているようでしたら、当面は必要ございません。その分を、各施設の設備補修などに使用させていただきたく存じます』
(……本気で言っているのか……?)
彼女を警戒していた心が、小さく揺れる。
俺は目の前の男に尋ねてみた。
「お前はどう思う? ブレイス。アリスティーヌのことを」
するとブレイスは、ためらいもなく答えた。
「私はこのふた月余り、あのお方の言動を間近で拝見し、オルセリエ王国王妃として信頼できる方だと判断いたしました」
「……」
俺に負けず劣らず警戒心の強いこの男があっさりとそう答えたことは、意外だった。アリスティーヌの活動が、それだけ献身的で真摯であるということだろう。
黙ったままブレイスの目を見上げると、奴は言葉を続けた。
「石を投げられようが、罵倒されようが、妃陛下は決して民たちに威を示し脅すことも、感情を荒らげることもありませんでした。これまでの王家の対応を真摯に謝罪する姿勢を、一貫して崩されなかった。そのうえで、ご自分にできることを模索し続けておられます。あのご様子に嘘偽りは感じられません。妃陛下は心から、この国の民たちのためを思い、動いておられます」
この寡黙な男が、こんなにもよく喋るとは。そのことに内心驚きつつ、俺はゆっくりと口を開いた。
「随分買っているな。お前がそこまで言葉を尽くすとは」
するとブレイスは一度静かに目を伏せ、再び俺の目を見る。
「正直な気持ちです。……出すぎたこととは存じますが、あのお方を疑い続け政から遠ざけておくのは、惜しいと感じます」
その言葉に、俺たちの間の空気が張り詰める。
緩みかけた神経を引き締め、俺は胸の奥に生じたわずかな揺らぎを押し込めた。
(……まだたったふた月だ。簡単に信用するわけにはいかない)
あの妃はあくまで、隣国がこちらに恩を着せ牽制するために送り込んできた存在だ。裏があってもおかしくはない。
俺を油断させるために、アリスティーヌが「自分は善良な女である」という芝居を打っている可能性もある。
(……どんなに長く付き合い信頼していようとも、人は簡単に裏切るのだ。そのことはもう、嫌というほど分かっている)
まだ早すぎる。隙を見せるわけにはいかない。
国王である俺のたった一度の判断の過ちが、この崩れかけた王国を一瞬で瓦解させてしまうのだ。
胸の内で自分を律し戒めていると、ブレイスはまるでそれを見透かすようにじっとこちらを見る。
「陛下、我々はあなた様に、この王国の命運を託しました」
妃の報告書を手にしたまま、俺はブレイスを見上げる。奴の低い声が、酷使した脳の奥に静かに響く。
「苦しむ民らは救いを求め、兵たちはこれ以上の無益な死を拒んでいた。誰もが明日への希望を見失い、絶望に喘(あえ)いでいました。朽ちかけたこの王国を救えるのは、セルジュ様をおいてほかにはいない。前王を排するために立ち上がった我々の思いは、一つでした」
そう言うと、ブレイスは一度口を閉じた。静まり返った室内に、夜鳥の鳴き声がかすかに届く。
「……ですがそのために、あなた様をこの過酷な道の最前に立たせ、無理を強いていることも承知しております」
ブレイスのその言葉に、俺はすぐさま反論する。
「俺は託されたから仕方なしに背負ったわけではない。分かっているだろう。父王の侵略戦争に反対し続けていたのは、他ならぬこの俺自身だ。俺が自分の意志で、王の座に就いた。この王国の現状も行く末も、全て俺が負うべき責だ」
ブレイスの黄金色の目が、かすかに揺らいだ。こちらを憐れむようなその視線に、苛立ちを覚える。
まるで、無理を通そうと駄々をこねる子どもを見守っているかのようだ。
目を逸らすと、ブレイスはさらに言い募った。
「であればなおさら、王としてのご判断を誤らぬためにも、妃陛下を頼ってみられてはいかがでしょうか。あのお方ならば、陛下とともにこの王国を救ってくださると、私は思います」
……この男はどうしても、アリスティーヌに俺を手助けさせたいらしい。まさかここまで心酔しているとは。
(……それでも、簡単に絆されるわけにはいかない)
信じて裏切られれば、民たちはどうなる。
俺は今度こそ、失敗するわけにはいかないのだ。
そう思う反面、もう一度顔を見て話をし、彼女の本心を探りたいという気持ちにも駆られる。
するとそれを見透かしたように、ブレイスが言った。
「それと、妃陛下よりのご伝言です。よければ近日中に、再度陛下と食事をご一緒させていただく機会がほしいと」
「……分かった。明日の夕食をともにすると、侍女長を通して伝えておく」
翌日、予定していた時刻に食堂へ赴くと、そこにはすでにアリスティーヌの姿があった。
俺を認め立ち上がった彼女は、深い青色のドレスを身に着けていた。宝飾も刺繍も控えめで、王妃としてはかなり簡素な衣装だ。長く真っ直ぐな栗色の髪は、耳の横から後ろでまとめている。
およそふた月ぶりに見る彼女は、少し痩せたようだった。
向こうも同じように感じたのかもしれない。遅れた詫びを告げた途端、「お疲れでございますね」と声をかけられた。彼女の目には、強い意志を感じさせる凛とした輝きがあった。
食事が始まると、俺はやんわりと探りを入れていく。
「ブレイスから聞いている。精力的に慰問を続けてくれているようで、助かる。丁寧な報告書もありがとう」
「お礼を言っていただくようなことでは。私は自分の務めを果たすべく動いているだけですので」
スープを口にしていたアリスティーヌが、静かな口調でそう答えた。上辺だけの虚言を言っているようには見えない。まぁ、高位貴族家出身の女だ。本心がどうあれ、取り繕うのはお手のものだろうが。
「……戦で荒れ果てた我が国の王都とエヴァンシアの王都では、様子がまるで違うはずだ。驚いただろう」
そう問うと、彼女はカトラリーを動かす手を止め、俺を見た。
「はい。何もかもが違います。多くのものを失ったオルセリエの民たちは、身も心も疲弊しきっていて……。ですが、どこの国の民も望んでいることは同じですね。大切な人たちに、平穏で幸せな暮らしを与えたい。その思いで、皆どうにか明日を生きようと踏ん張っています。……それを叶えられる国に、早く戻さなくてはなりませんね」
その言い方は、まるで「私たち二人で」と言っているようだった。
ほんの一瞬、彼女の言葉を頼もしく感じてしまい、俺はすぐに気を引き締める。
そんな俺の心の内など知らないアリスティーヌは、煮込んだ鶏肉にナイフを入れながら口を開く。
「この王宮のすぐ北に、神殿がございますね。オルセリエ王国では、神殿は慈善事業には関わっていないのですか? それとも、もはやその余力も……?」
「ああ。長引く戦で寄進は減り、若い神官らも徴兵されたまま戻ってこなかった者も多い。今は祈祷や葬儀の対応で手一杯だろう」
「……やはりそうですよね」
そう答えたアリスティーヌは、何やら思案するようにしばらく沈黙した後、再び口を開いた。
「エヴァンシアでは私は、毎朝神殿に通い、祈りを捧げておりました。こちらでも、そのようにさせていただいてよろしいでしょうか」
その言葉に瞬時に頭を回転させた俺は、この妃に神殿に立ち入られて困ることはないかを考え、大丈夫だろうと判断した。
「……君がそうしたいのなら、構わない。神官長には話を通しておく」
そう答えると、アリスティーヌは聖母のように穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
尖った神経がほぐれていくような、ささくれだった心が凪いでいくような、そんな笑顔だった。
各国から送られてくる書簡の返事。早くこれらを片付け、国内の報告書の確認に移らなくては。だが捌いても捌いても、新たな書類は日々積み上がる。
疲労が溜まった頭に靄がかかる。気合いを入れ直すようその頭を軽く振り、俺はもう一度机上の書類に目を通すべく、視線を落とした。
その時だった。
「失礼いたします」
扉の向こうから聞こえる、静かながらも腹の底に響く低い声。
騎士団長のヴォルグ・ブレイスだとすぐに分かった。
「入れ」
短く答えると、すぐに扉が開いた。無愛想な大男は見た目に似合わぬ洗練された所作で、こちらへと近付く。
「……彼女の様子はどうだ」
一言話すだけでもため息が漏れる。……いかん。いい加減睡眠をとらねば。これ以上回らぬ頭を酷使すれば、取り返しのつかない失敗をしてしまいそうだ。
ブレイスはその黄金色の目で俺をじっと見た後、妃からの報告書をこちらに手渡しながら話しはじめた。
「今週は王都の救護院三ヶ所と、児童養護施設四ヶ所を再訪されました。他、王都近郊の集落や炊き出し所も視察されております」
聞き漏らさぬよう、俺は報告書に視線を落としたままブレイスの言葉に耳を傾ける。
このオルセリエに嫁いできて以来二度だけ対面した妃、アリスティーヌの顔が、脳裏をよぎった。
「整理した収容人数と配給量の記録をもとに、各施設の不足分を調整しておられます。王宮備蓄庫から回された小麦と塩は、すでに各所に行き渡りました」
「……そうか」
「はい。限られた人数ではありますが、医師らによる各施設の巡回も再開しました。また、数ヶ所の空き地についても整備が始まり、働ける者を集め、小規模ながら耕作の準備を進めております」
「……」
内心、舌を巻いていた。嫁いできて日が浅い我が正妃は、この短期間で予想していたよりもはるかに成果を上げつつある。まさかここまで本気で働いてくれるとは考えていなかった。
(特別な加護の力を持って生まれた、中堅国エヴァンシアの、高位貴族家の令嬢。そのうえ王妃に迎えられたとなれば、さぞや気位ばかり高い女であろうと思っていたが……)
他国から突然送り込まれた妃。そこにどんな思惑が絡んでいるかも分からぬ以上、こちらの内部事情に首を突っ込ませるわけにもいかない。そう考え部屋だけを与え、ただ大人しく過ごさせていた。
ところが彼女は、嫁いできてわずか一週間後には、仕事を与えてほしいと主張してきたのだ。
彼女を財政や外交関係から遠ざけるため、俺は市井での役目を命じた。正直、その働きにさほど期待していたわけではなかった。
だがこのふた月以上、ブレイスから上がってくる毎週の報告を聞くたびに、俺は驚いていた。妃は各施設の劣悪な環境を、着実に改善している。
ブレイスが言葉を続けた。
「これまでもご報告申し上げてきたように、当初はどの施設を訪問しても、民たちからの敵意と憎悪を向けられるばかりでした。ですが、妃陛下の真摯な取り組みは、確実に彼らの心を動かしています。今では妃陛下が姿を見せると、皆の表情が明るくなり、子どもたちなど駆け寄ってくるようにまでなりました」
「……そうか」
報告書に並ぶ彼女自身の丁寧な筆跡を追いながら、狐につままれた心地になる。
あの女は、一体何が目的なのだろうか。
エヴァンシアでは十分に得ることのできなかった王妃としての名声を、我が国で得ようとしている……?
それだけにしては、随分とひたむきだ。
結婚式も、披露目の場も望まない。こちらからはドレスの一つさえ贈ることもできていない。そのことに対し、不満を漏らしたという話も聞かない。
決して豪華ではない食事もその他の待遇も、あの女は文句一つ言わず受け入れている。
それどころかこの報告書には、現状の改善案の一つとして、王宮の支出の見直しが提案されていた。
王宮で使用している備品や消耗品の費用を切り詰め、その分を民間の各施設へ配る薬や食料、医師の巡回費用として充てるべきだとある。
そして最後に、こう書かれていた。
『王妃用の予算が余分に組まれているようでしたら、当面は必要ございません。その分を、各施設の設備補修などに使用させていただきたく存じます』
(……本気で言っているのか……?)
彼女を警戒していた心が、小さく揺れる。
俺は目の前の男に尋ねてみた。
「お前はどう思う? ブレイス。アリスティーヌのことを」
するとブレイスは、ためらいもなく答えた。
「私はこのふた月余り、あのお方の言動を間近で拝見し、オルセリエ王国王妃として信頼できる方だと判断いたしました」
「……」
俺に負けず劣らず警戒心の強いこの男があっさりとそう答えたことは、意外だった。アリスティーヌの活動が、それだけ献身的で真摯であるということだろう。
黙ったままブレイスの目を見上げると、奴は言葉を続けた。
「石を投げられようが、罵倒されようが、妃陛下は決して民たちに威を示し脅すことも、感情を荒らげることもありませんでした。これまでの王家の対応を真摯に謝罪する姿勢を、一貫して崩されなかった。そのうえで、ご自分にできることを模索し続けておられます。あのご様子に嘘偽りは感じられません。妃陛下は心から、この国の民たちのためを思い、動いておられます」
この寡黙な男が、こんなにもよく喋るとは。そのことに内心驚きつつ、俺はゆっくりと口を開いた。
「随分買っているな。お前がそこまで言葉を尽くすとは」
するとブレイスは一度静かに目を伏せ、再び俺の目を見る。
「正直な気持ちです。……出すぎたこととは存じますが、あのお方を疑い続け政から遠ざけておくのは、惜しいと感じます」
その言葉に、俺たちの間の空気が張り詰める。
緩みかけた神経を引き締め、俺は胸の奥に生じたわずかな揺らぎを押し込めた。
(……まだたったふた月だ。簡単に信用するわけにはいかない)
あの妃はあくまで、隣国がこちらに恩を着せ牽制するために送り込んできた存在だ。裏があってもおかしくはない。
俺を油断させるために、アリスティーヌが「自分は善良な女である」という芝居を打っている可能性もある。
(……どんなに長く付き合い信頼していようとも、人は簡単に裏切るのだ。そのことはもう、嫌というほど分かっている)
まだ早すぎる。隙を見せるわけにはいかない。
国王である俺のたった一度の判断の過ちが、この崩れかけた王国を一瞬で瓦解させてしまうのだ。
胸の内で自分を律し戒めていると、ブレイスはまるでそれを見透かすようにじっとこちらを見る。
「陛下、我々はあなた様に、この王国の命運を託しました」
妃の報告書を手にしたまま、俺はブレイスを見上げる。奴の低い声が、酷使した脳の奥に静かに響く。
「苦しむ民らは救いを求め、兵たちはこれ以上の無益な死を拒んでいた。誰もが明日への希望を見失い、絶望に喘(あえ)いでいました。朽ちかけたこの王国を救えるのは、セルジュ様をおいてほかにはいない。前王を排するために立ち上がった我々の思いは、一つでした」
そう言うと、ブレイスは一度口を閉じた。静まり返った室内に、夜鳥の鳴き声がかすかに届く。
「……ですがそのために、あなた様をこの過酷な道の最前に立たせ、無理を強いていることも承知しております」
ブレイスのその言葉に、俺はすぐさま反論する。
「俺は託されたから仕方なしに背負ったわけではない。分かっているだろう。父王の侵略戦争に反対し続けていたのは、他ならぬこの俺自身だ。俺が自分の意志で、王の座に就いた。この王国の現状も行く末も、全て俺が負うべき責だ」
ブレイスの黄金色の目が、かすかに揺らいだ。こちらを憐れむようなその視線に、苛立ちを覚える。
まるで、無理を通そうと駄々をこねる子どもを見守っているかのようだ。
目を逸らすと、ブレイスはさらに言い募った。
「であればなおさら、王としてのご判断を誤らぬためにも、妃陛下を頼ってみられてはいかがでしょうか。あのお方ならば、陛下とともにこの王国を救ってくださると、私は思います」
……この男はどうしても、アリスティーヌに俺を手助けさせたいらしい。まさかここまで心酔しているとは。
(……それでも、簡単に絆されるわけにはいかない)
信じて裏切られれば、民たちはどうなる。
俺は今度こそ、失敗するわけにはいかないのだ。
そう思う反面、もう一度顔を見て話をし、彼女の本心を探りたいという気持ちにも駆られる。
するとそれを見透かしたように、ブレイスが言った。
「それと、妃陛下よりのご伝言です。よければ近日中に、再度陛下と食事をご一緒させていただく機会がほしいと」
「……分かった。明日の夕食をともにすると、侍女長を通して伝えておく」
翌日、予定していた時刻に食堂へ赴くと、そこにはすでにアリスティーヌの姿があった。
俺を認め立ち上がった彼女は、深い青色のドレスを身に着けていた。宝飾も刺繍も控えめで、王妃としてはかなり簡素な衣装だ。長く真っ直ぐな栗色の髪は、耳の横から後ろでまとめている。
およそふた月ぶりに見る彼女は、少し痩せたようだった。
向こうも同じように感じたのかもしれない。遅れた詫びを告げた途端、「お疲れでございますね」と声をかけられた。彼女の目には、強い意志を感じさせる凛とした輝きがあった。
食事が始まると、俺はやんわりと探りを入れていく。
「ブレイスから聞いている。精力的に慰問を続けてくれているようで、助かる。丁寧な報告書もありがとう」
「お礼を言っていただくようなことでは。私は自分の務めを果たすべく動いているだけですので」
スープを口にしていたアリスティーヌが、静かな口調でそう答えた。上辺だけの虚言を言っているようには見えない。まぁ、高位貴族家出身の女だ。本心がどうあれ、取り繕うのはお手のものだろうが。
「……戦で荒れ果てた我が国の王都とエヴァンシアの王都では、様子がまるで違うはずだ。驚いただろう」
そう問うと、彼女はカトラリーを動かす手を止め、俺を見た。
「はい。何もかもが違います。多くのものを失ったオルセリエの民たちは、身も心も疲弊しきっていて……。ですが、どこの国の民も望んでいることは同じですね。大切な人たちに、平穏で幸せな暮らしを与えたい。その思いで、皆どうにか明日を生きようと踏ん張っています。……それを叶えられる国に、早く戻さなくてはなりませんね」
その言い方は、まるで「私たち二人で」と言っているようだった。
ほんの一瞬、彼女の言葉を頼もしく感じてしまい、俺はすぐに気を引き締める。
そんな俺の心の内など知らないアリスティーヌは、煮込んだ鶏肉にナイフを入れながら口を開く。
「この王宮のすぐ北に、神殿がございますね。オルセリエ王国では、神殿は慈善事業には関わっていないのですか? それとも、もはやその余力も……?」
「ああ。長引く戦で寄進は減り、若い神官らも徴兵されたまま戻ってこなかった者も多い。今は祈祷や葬儀の対応で手一杯だろう」
「……やはりそうですよね」
そう答えたアリスティーヌは、何やら思案するようにしばらく沈黙した後、再び口を開いた。
「エヴァンシアでは私は、毎朝神殿に通い、祈りを捧げておりました。こちらでも、そのようにさせていただいてよろしいでしょうか」
その言葉に瞬時に頭を回転させた俺は、この妃に神殿に立ち入られて困ることはないかを考え、大丈夫だろうと判断した。
「……君がそうしたいのなら、構わない。神官長には話を通しておく」
そう答えると、アリスティーヌは聖母のように穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
尖った神経がほぐれていくような、ささくれだった心が凪いでいくような、そんな笑顔だった。