【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第50話 優しいおねーさん、その名前は……
控えの小部屋は、少しだけ冷たい空気に包まれていた。
部屋の壁際には金の装飾が施された長椅子が並ぶ。
低い円卓の上に、銀のポットや白磁の茶器が整然と置かれていた。
窓には薄いレースのカーテン。
庭園の灯りが柔らかく滲んでいる。
大きな姿見と小さな化粧台も備え付けられている。
きっと化粧直しに使うのだろう。
小部屋の扉が閉まると、ほんの少し聞こえていた弦楽の音も、ぷっつりと途切れた。
―――――――
厚手の豪奢な絨毯は、足音も吸い込み、静けさに拍車をかける。
紅い瞳のおねーさんに手を引かれるがまま、あたしは部屋の中央のソファに腰を下ろしていた。
おねーさんは部屋の隅のテーブルで、何かごそごそと作業している。
どうやらお茶を用意してくれているようだ。
流れるような金色の髪が、部屋の灯りをキラキラと綺麗に照り返している。
後ろ姿だけでも、高貴な品の良さを窺えた。
声を掛けてくれて、そして心配してくれる感情色を視たせいか。
やけくそ気味だった激しい情動が収まってきていた。
「はい、どうぞ」
目の前にカップを置いてくれた。
おねーさんが、あたしの顔を覗き込む。
「泣いたあとは……喉が渇きますわよね」
やさしく微笑むおねーさん。
口元のほくろがとても艶っぽい。
「わたくし、お茶を淹れるのは得意ですの」
おねーさんの紅い瞳が「飲んでね?」という強い意志を伝えてくる。
「ありがとうございます……」
確認されずとも、勧められたらいただくのがあたしの正義。
両手でカップを支え、顔に近づけると、ふわりと紅茶の香気が漂った。
「あったかい……」
熱い紅茶が、消耗した身体に染み渡る。
……美味しい。
香りも強いし、これはめっちゃ良い茶葉。
……お茶の品質から思い浮かべちゃうなんて……
でも、気分が回復してきている証拠だと思った。
「お話を聞く前に、これね」
そう言っておねーさんが持っていたのは、琥珀のピアス……あたしの。
「あら、アナタの瞳と同じ……ステキな色ね。 アナタは、とてもパートナーの方に愛されているのですね」
「そんな……ことは……」
そんなこと……あるのかな?
でもこれは潜入のための、疑われないための小道具……
「着け直してさしあげます」
有無を言わさず、おねーさんはあたしの耳に着け直してくれる。
「とても似合いますね。 もう、失くしたりしちゃダメよ」
耳元から、揺れる琥珀の感触が戻ってくる。
あっ……
喪失した何かを取り戻したような……
心の隙間が、ことん、と埋まったような音がした。
オジさまの顔が浮かんだ。
そうだ、オジさまが選んでくれたピアスなんだ。
投げてしまうなんてとんでもなかった。
失くしちゃいけないモノだった。
あ、う……戻ってきて、よかった……!
安堵なのか、後悔なのか。 涙が零れた。
「ぐすっ……」
「あらあら、どうしたのかしら。 話せるようなら、聞かせて」
――おねーさんの慈しみの感情色に、興味の色が差す。
そりゃ、ピアスを付け直しただけで泣いてちゃ気になるよね。
でも、今、口を開くと嗚咽が漏れてしまいそうで……
「そうそう。 これもアナタのモノですね。 傍に落ちていましたよ」
「……?」
そう言っておねーさんがあたしの目の前に差し出したのは、ハンカチに包まれた何かだった。
「開けますわね。 あら……サンドイッチ?」
なにゆえこんな所に?と、あたし自身も驚いたが、思い出した。
それは、あの時、黒髪令嬢から救い出したフルーツサンドだった。
ハンカチに大事そうに包まれていたという事は……
廊下に逃げ出す時もずっと持ってて、落ち込む前にハンカチに包んだって事?
全っ然、覚えてない!
完全に無意識でやってたんだろう。
自分の旺盛な食い意地っぷりに、あらためて恥ずかしくなった。
――グーッ
美味しそうな生クリームとイチゴに触発されて、さらにお腹も鳴ってしまった。
恥の二段重ね!
「食べてしまいなさい」
「……え?」
恥ずかしさに悶えるあたしに、おねーさんからの意外な提案。
この、まるで聖女のような紅い瞳のおねーさんは、明らかに爵位の高い貴族さまだ。
品の良さが一目で分かり、所作もすごく綺麗。
あの令嬢たちのように、意地汚い真似は絶対に許さないタイプだと思ったのだけれど。
「女の子が泣いたあとは、甘い物か美味しい物が一番ですわ。 きっと落ち着きます」
このおねーさんは、すごく断言口調だ。
人に命令しなれている感じが、やっぱりお貴族さまだ。
でも今は、それが助かる。
正しい許可をくれているようで……
「いただきます」
遠慮なく一口。
ふわふわの生クリームとイチゴの程よい酸味が、柔らかいパンと一緒に口いっぱいに広がった。
「ぐすっ……お゛いしい……」
鼻が詰まって、涙が滲む。
美味しさなのか、安心なのか、隣にいるおねーさんの優しさからなのか。
涙の理由は分からない。
「あら、良いお顔ね。 良かったわ」
泣きながらサンドイッチを頬張るあたしの隣で、おねーさんは自ら淹れたお茶を優雅に啜る。
食べ終わるまで何も言わず、傍にそっと居てくれた。
その、ただ寄り添ってくれている姿勢が、今のあたしにはありがたかった。
―――――――
「ふぅ……」
甘い物を摂取して、美味しいお茶も飲んで、なんだか満足してきた。
それと、誰かがいてくれる温かさ。
やっぱりあたしは一人はダメなんだ。
……とくに落ち込んでいる時は。
「落ち着いたかしら」
「はい、本当にありがとうございました!」
おねーさんの優しさも効いた。
こちらの顔を真っ直ぐ見て、微笑を浮かべる紅い瞳のおねーさん。
妙に艶っぽい。
「原因はやはり、そのシミですか」
「あ、ええと……」
おねーさんは、そう言ってあたしのドレスのワイン染みへと視線を落とす。
うーん……ワインを掛けられたのが原因であるとも言えるし、そうでもないとも言える。
ショックではあったけども、あれくらいで怯むようじゃ下町の香房は回せない。
あれは、突然の悪意に怯んでしまったのと……
「同情だって言われたんです」
「……同情」
「ええ。 あた……私のパートナーは、同情で、私と結婚したんだって……」
思わずおねーさんに吐露してしまった。
きっと誰かに、臆病なあたしを知って欲しかった。
ふと横目でおねーさんの方を見ると、やけに真剣な顔だった。
どうやらあたしの言葉を咀嚼しているようだ。
なんだか気恥ずかしくなって、あたしは再びお茶に手を付ける。
「アナタはそのパートナーの方を、愛している」
「えっ!? あ、はい!」
いくつかやりとりを素っ飛ばしたような、おねーさんの突然の強い言葉。
あたしは思わず肯定を返してしまう。
「アナタが愛しているのなら……同情だろうと、相手の意は関係ないのではなくて?」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「もっと、アナタ自身の愛情を信じることです」
おねーさんのルビー色の瞳が、じっとあたしを捉える。
エモパレを通さずとも、強い心が、揺らがない意志が伝わってくる。
きっとおねーさんは、旦那さんを強く愛しているんだろう。
自分の気持ちを信じる、か……
「アナタの蜂蜜色の瞳も、とても澄んでいてキレイですよ」
おねーさんが白い手袋の指先を伸ばし、あたしの耳元の琥珀をほんの少し指で揺らした。
そのピアスを信じなさい、と言われているようだった。
「へへ……」
おねーさんの気遣いが嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。
微笑みを返してくれるおねーさん。
落ち着いてきたので、おねーさんをあらためて観察する余裕も出てきた。
薄い金髪に鮮やかなルビー色の、意志の強い瞳。
真っ白いドレスに白い手袋がよく似合う。
清楚でどこか近寄りがたいその姿は、まるで物語に出てくる聖女みたいだった。
……実際は違うのだろうけども。
首元にある黒いチョーカーが、アクセントになっててとっても上品。
口元のほくろも、やけに色っぽく見えた。
「あら、ステキな笑顔ね。 元気が戻ったようで安心しました」
「はい、あらためて、ありがとうございました」
「礼には及びません。 わたくしも、興味があったから追ってきたのです」
……追ってきた?
「……あの、追ってきたって?」
「あの令嬢方にワインを掛けられているアナタを、遠くから見ていました」
「あ、あはは……お見苦しい所をお見せしまして」
見ていて気分の良いモノではなかったと思う。
「えっと……洗礼だって言われました。 平民のあたしはこの場には相応しくないって……」
「平民……やっぱり市井の方だったのですね」
「ああっ! 大変申し訳ございません!!」
やっばっ! すっかり忘れてた!
あたし……名乗ってない!!
「申し遅れました! 私は、ヴァルグレイ・ゼオファルド騎士爵の妻、ハルネと申します!」
慌てて立ち上がってご挨拶の膝折礼。 深々と膝と頭を下げる。
どう見てもおねーさんは高位の貴族。
……やってしまった。
もう一度お茶を掛けられるくらいは覚悟した。
「……ゼオファルド」
おねーさんはあたしの失態はまるで気にしていないようだった。
それよりも家名が気になったようだ。
あれ? もしかして、オジさまを知ってる?
……って、知られてても全然おかしくないか。
「わたくしの方も名乗っていませんでしたね」
ドレスの裾を持ち、流れるような動作でカーテシーを見せる。
まるでお手本みたいに綺麗で、思わず見惚れた。
「リセリーナ・アルテノット男爵夫人です。 お見知りおきを、ハルネさん」
呆けも一瞬、あたしは一気に目を覚ます。
アルテノット男爵……って、アルテノットぉっ!?
今、目の前にいるのは、今日あたし達が探っていた人物の一人。
エドリック・アルテノット男爵の、奥さんだった。