【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第6章
第55話 第6章・序幕 呼び名が変わった、いつもの朝
――チチチッ……
カーテンの隙間から、軽やかな鳥の鳴く声と、やわらかな朝の陽が差し込んでいた。
窓辺のエモパレポーションの容器が、キラリと陽の光を反射する。
昨夜の、絢爛で豪華なホール。
まばゆいシャンデリアも、色とりどりのビュッフェも、紅い瞳の聖女の笑みも。
まるで全部が夢だったみたいに。
世界は静かで、穏やかな……
いつもの朝があった。
―――――――
「う~~……」
あたしは自分のベッドで寝間着姿のままゴロゴロしていた。
昨夜、調査局でドレスを返して、そのまま家まで送ってもらった。
みんなに心配されてしまうくらいに、もうヘトヘトだった。
そんなあたしの様子を見ていたシャリエナが、
――「お姉ちゃん、明日はゆっくり寝てていいよ」
と言ってくれたので、それに甘えて今に至る。
疲れ切っていたはずだった。
だけど、オ……ヴァルさまに甘えまくったせいだろうか。
寝起きはいつも以上にスッキリしていた。
せっかく寝坊の許可を貰ったのに……
「あ~~…………」
再びベッドでゴロゴロする。
もはや、二度寝も無理そうだ。
……せっかくだから昨夜の事を整理しよう。
「ヴァルさまのタキシード、最高だったな~」
アレだけでも舞踏会に参加した甲斐があったってものよ。
あたしをちゃんと褒めてくれたのも嬉しかったし。
エスタラン侯爵様は渋くてカッコよかったな。
ギルトハルト将軍も迫力あってステキだったけどあたしの趣味とは違った。
あの筋肉もりもりな感じは、もしかしたらシャリエナの好みかもしれない。
ルシアン様……
あたしの事、好みだって言ってたけど、ホントかな?
ドレスで体型もちょっと隠れてたし、そのせいもあるよね、きっと。
でも、あたしをちゃんと見てくれてる感じもしたし、好感は持てる人だったな、うん。
……まあ、ヴァルさまに言われた時のドキドキとは、全然違ったけれど。
令嬢達……
久しぶりの真っ直ぐな悪意にやられちゃった。
あんな悪口、普段なら大したことないけど、ドレスを汚されたのがダメだった。
みんなの気持ちを、汚してしまった気がしたから。
ドレスにはすっかりワインが染みてしまっていたけれど、トリサちゃんは「お~見事なシミシミ。でも心配無用、おまかせでござい」と言ってくれた。
あの子にはあらためて感謝だ。
リセリーナさん……
すごく優しかったのに、慰めの言葉も嬉しかったのに……
あの人は、おかしい。 完全に倫理観がバグってる。
そして、観察眼も鋭い人だ。
エモパレが一瞬で見抜かれたのにはビビってしまった。
そして、アルテノット男爵……
あんな気弱そうな人だったなんて……
何より、あの、ふくよかな体型……
彼があのリセリーナさんに強烈に愛されている事実が、なぜかあたしの胸をザワザワさせる。
ずっと握りしめていた”当たり前”が、知らないうちにひび割れていた気がした。
今はまだ……深く考えたくない。
そして、帰りの馬車……
あらためて、昨日の自分の醜態を思い出す。
……めちゃくちゃヴァルさまに甘えてしまった。
弱気になっていたとはいえ、絶対やり過ぎた。
あたし、全然役に立たなかったのに。
あんなに迷惑かけたのに……
でも、今もハッキリと思い出せる。
ヴァルさまの大きな胸板と、匂い、感触……
身体の芯から熱くなって……ヴァルさまをもっと、感じたくて……
「……んあ~~~っ!!」
思わず枕に顔を埋め、足をバタバタさせてしまう。
ダメだ! このまま寝過ごせるわけない!
「もう起きよう!」
カーテンの閉じたままの部屋を後にし、あたしは寝間着姿のまま一階のリビングへと下りる。
―――――――
下には誰もいなかった。
シャリエナはお店の方にいるか、はたまた買い物か。
あたしは手慣れた動作でポットに水を注ぎ、魔導コンロでお湯を沸かす。
お茶でも飲んで目を覚まそう。
キッチンには、フードカバーのかかったお皿があった。
カバーを持ち上げて見れば、ゆで卵が三つ。
おそらくシャリエナが朝食として作って食べたものの残りだ。
あの子は卵が好きだから。
位置とフードカバーからして、きっとあたしの朝食用だ。
ついでにと残してくれたんだろう。
「だけど、いくらなんでも、ゆで卵三つってさぁ……」
あたしは、流れるように調味棚からハルネ謹製マヨネーズを取り出す。
塩も好きだけど、やっぱりマヨよね!
マヨネーズは正義!
いただきますっ。
「んむっ! やっぱりゆで卵にはマヨネーズが最強!」
「あ、お姉ちゃんいた。 それ、わたしのゆで卵……」
いつの間にか戻って来ていたシャリエナが、あたしのゆで卵にツッコミを入れる。
「いいじゃん! 残してくれたんでしょ?」
「うーん、そうなんだけどー……それよりお姉ちゃん、その格好」
「なによ。 家なんだからいいじゃないのさ」
たしかに、起きてそのまま。
髪は跳ねてて、目元もちょっと腫れぼったい気がするけれど。
寝間着は、コットン生地のゆるゆるワンピース。
胸元がきついのはイヤなので、だらしなく紐も解けている。
「肩紐もズレてるよ。 お母さんみたい」
「やめてよ! お母さんと一緒にしないで! 別にいいでしょ? ちょっとぐらい……」
「お姉ちゃんがそれでいいならいいけど……ヴァルグレイさん、来てるよ」
「……邪魔している」
シャリエナの後ろを見ると、
そこには背の高いヴァルさまが、いつものように姿勢よく佇んでいた。
「ちょちょ、ちょっとっ!! なんで先に言わないのっ!?」
「お姉ちゃんが喜ぶと思って」
ズレた肩紐を直し、がっつり開いたデコルテラインを腕で隠す。
シャリエナに文句を言ったところで、今更だ。
……でも、昨日あんなに甘えちゃったしなぁ。
ヴァルさま相手なら、ま、このままでもいっか。
…………ってぇ! そんなワケないでしょっ!
「…………」
さすがは紳士なヴァルさまだ。
こちらに視線を合わせず、横を向いて目を閉じてくれていた。
「はい、お姉ちゃん」
「っ! ナイス!」
奥の椅子にかけてあったカーディガンを、さっと渡してくれるシャリエナ。
出来た妹よ、ホント。
「も、もういいよ! おはよう、ヴァルさま」
「……ああ、おはよう。 こちらこそ急に訪ねて、すまなかった」
慌てふためくあたしと違って、常に佇まいが落ち着いているヴァルさま。
今日も渋い。 カッコイイ。
「……昨日、返しそびれた物がある。 早いうちに返しておきたかった」
「え? あぁ、そうなんだ!」
昨日、疲れ切っていたあたしの姿を見て失念したんだろう。
それにしても、返しておきたい物って……何かあったっけ?
ヴァルさまは、懐からいつものようにハンカチを取り出し、丁寧に開いていく。
そこには、あたしのいつも着けている――桜の花びらを模したピアスがあった。
「あ、そういえば預かってもらってたっけ」
「……もしかしたら、キミにとって大切な物かもしれない、と」
「ヴァルさま……」
その気遣いが、嬉しい。
あたしの事を、ずぅっと優先して考えてくれている。
「んふふ……」
さっそくいつものように着ける。
いつものクセで、シャリエナに確認してもらおうと思ったが、
あえてヴァルさまの方へと耳を向ける。
「どうかな?」
「……ああ、いつものハルネだ。 似合っている」
今のは、ちょっとわざとらしい誘い受けだ。
また甘えてしまった。
「うへへ……」
「笑い方キモいよ、お姉ちゃん」
「うるさいわね……」
「ニヤけてていつものキレがないよ……って、アレ?」
シャリエナが、ズイっとあたしの桜のピアスを覗き込む。
不思議そうな顔。
「そんな色だったっけ?」
「何言ってんのさ。 そうだよ。 間違いなくあたしのだよ」
この子も朝ボケか?
お気に入りでずっと着けてるあたしが言うんだから、間違いないに決まってる。
……え? ……そうだよね?
自信なくなってきた。
「お姉ちゃんがそう言うなら、わたしの気のせいかな」
「ま、まったく……アンタがくれたモノでしょうが」
「そういえばそうだったね。 えへへ」
「…………」
あたし達のやりとりが微笑ましかったのか。
ヴァルさまは、じぃっとこちらを見つめていた。
……………
「……忙しなくてすまないが」
「ううん、ヴァルさまだって昨日の事でまだ大変なのに、わざわざありがとう」
仕事の合間を縫って、自らサフラン香房へ足を運んできてくれたらしい。
あたしの桜のピアスを返すためだけに来てくれるなんて……愛を感じる。
なんてね!
そんな事、思っちゃダメだよ。
…………ダメ、なのかな?
「……あのリセリーナの事だ。 必ず何かあるはず。 進展があればまた報告に来る」
「うん……っ」
とにかく今は、なんでもいい。
こんな小さな約束でも、嬉しかった。
足早に去っていくヴァルさまを見送る。
その姿が見えなくなるまで見送る。
次に甘えられるのはいつなのかな……?
次に甘える機会なんてくるのかな……?
……そもそも、甘えても良かったのかな。
あたし達は、そんな関係なのかな……?
「お姉ちゃん」
「……何?」
「”ヴァルさま”……って」
「うっ!」
「しかもヴァルグレイさんの方も、”ハルネ”って……」
シャリエナが、によによと妙な笑みでからかう。
涼しい春風が通り過ぎた。
まるで、焦がれる胸と、熱くなってしまった頬を冷ますように。
あたしは何かを誤魔化しながら、カーディガンの襟を、胸に手繰り寄せた。