【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第56話 二つの桜のピアス
忙しない。
サフラン香房を後にしたヴァルグレイは、頭の中で今日の予定を組み直していた。
舞踏会後の後始末に、関係者や各所への確認。
アルテノット夫妻のその後の動向も追わねばならない。
それに、ハルネからの話では、令嬢達の飲み物にもノクセリウムが混ぜられていたらしい。
会場に潜っていたレルガが、すでにグラスを回収している。
分析に回っているはずだが、そちらの結果も確認しておかねばならない。
やるべき事は山積している。
それでも、ハルネの桜のピアスだけは、朝のうちに返しておく必要があった。
リセリーナという黒幕がハッキリした今、焦りを感じ始めていた。
一刻も早く止めねばならない。
ヤツの言い残した「気に入ったわハルネさん」という言葉が、胸騒ぎの色を濃くしていた。
気づけば陽は大きく傾き、調査局へ戻ったのは、夕刻を過ぎた頃だった。
―――――――
「あっ、隊長!」
いつも通り静かな、第二調査局のロビー。
そこには、ヴァルグレイと同じく、今日一日各所に駆けずり回っていたレルガの姿があった。
「……隊長と呼ぶな。 だが丁度よかった。 例のグラスの件、そろそろ分析が終わっているはずだ。 結果を持ってこい」
「へい! 直接ボスの部屋へ持っていきやス? 今日はもう外には出ないんスか?」
威勢よく返事を返すレルガに、ヴァルグレイは即座に返答する。
「……ああ。 私は衣装庫へ寄ってから副局長室に籠もる」
「了解ッス! しかしハル姐さんもやるッスね。 こんな強い証拠が掴めると思ってなかったっスよ。 悪運が強いというか……」
「……余計な口を叩くな。 行け!」
会話したそうなレルガをバッサリ切るヴァルグレイ。
しかし、レルガは不満気な顔一つ見せる事なく、
「へい!」
と、威勢のよい返事をするのだった。
―――――――
相手が平民であれば、副局長の権限で事足りる。
しかし、貴族となれば話は別だった。
貴族相手の強制捜査は、言うなれば宣戦布告だ。
おいそれと行う事は出来ないし、一歩間違えば調査局そのものの責任が問われる。
慎重に書類を揃える必要があった。
何が必要かを確認し、一つ一つ入念に書き込んでいく。
手が止まる事のないヴァルグレイだったが、胸中は先ほどの衣装庫で聞いたトリサの言葉を反芻していた。
――「染みはワイン。 真横から無防備に掛けられた。 それくらいしか分からないでござい」
ハルネはヴァルグレイに対し、令嬢らの件については曖昧に伝えていた。
しかし、あの時のハルネの様子から、何があったかはある程度察しがついていた。
口惜しい……
ハッキリと伝えてくれないハルネに、ではない。
ハッキリと伝えられるほどの信用を得られていない自分に対し、腹が立った。
滅多に感情を表へ出すことの無いヴァルグレイ。
しかし、書類の筆圧は、彼の怒りを示していた。
――コンコン
「ボス。 持って来やした」
ノック後に現れたのはレルガ。
一枚の書類を手にしていたが、なぜかその表情は神妙さを帯びていた。
「……ああ。 …………何か言いたそうな顔だな」
ヴァルグレイは、瞬時に表情を読み取る。
「あ~、えっと~……まずは結果の報告ッス。 グラスの中身から、ノクセリウムと概ね一致する成分が検出された……という事で、改造薬でほぼ間違いないッス」
「……そうか」
ハルネからの証言にもあった「ノクスミア」。
おそらくソレだろうと当たりを付ける。 ここまでは読み通り。
「……分かった。 書類を寄越せ」
書類を受け取ろうとするヴァルグレイだったが、なぜだか抵抗を感じた。
見れば、レルガが指で抑えていた。
「? ……どうした?」
「…………もう一つ、報告があるッス」
指を離したレルガは、神妙な顔をしたまま、それを告げた。
「……副局長。 セーヴラン局長から伝言ッス。 「本日手が空き次第、必ず顔を出すように」と……」
「…………」
書類を受け取ったまま、ほんの少し顔を伏せ、右目を閉じるヴァルグレイ。
レルガにはすぐに分かった。
自分のボスが、とうにその覚悟を決めていた事を。
「あのっ! オレが、ハル姐さんとエナ姐さんを説得しやスよ! 事情を知れば、お二人もきっと……!」
「馬鹿を言うな。 これは私自身の問題だ」
にべもない態度で、再び書類との格闘を始めるヴァルグレイ。
ふと、その筆が止まる。
「……だが、私が動けなくなった時は」
「ちょっと待てよっ!! そんなのボスらしくないッスよっ!!」
上司への体裁も整えず、声を荒げるレルガ。
彼にとって、聞きたくない言葉だった。
「……撤回する。 失言だった」
「…………」
「……そんな顔をするな。 この事件だけは、何としても私自身の手で解決するつもりだ」
「ボス……」
その言葉を受けても、レルガの胸中は穏やかではなかった。
しかし、ヴァルグレイは書類に向き合い、顔を向ける事は無かった。
「……だが、先ほどの言葉は、決して上司に対して言うべきモノではないし、貴様の提言も組織の綱紀を乱す行為だ」
「やっべ……」
書類を書き上げたヴァルグレイは、席から立ち上がり、レルガの正面に立つ。
真っ直ぐ見下ろすその視線からは、いつもの威圧感は感じなかった。
「……しかし、それも上司を慮った忠言であったと認め、不問とする。 これを局長へ渡してこい」
それは、アルテノット男爵邸の強制捜査の許可を求める書類だった。
「…………了解しやした。 ボスは?」
「……私はもう少し書類を整えた後、局長の元へ向かう。 行け」
ヴァルグレイはそれっきり、机に座り書類と向き合う。
レルガは、なるべく音を立てず、副局長室を後にした。
ふたたび静寂の訪れた副局長室。
ヴァルグレイは机の一段目の引き出しを開け、一枚の書類を取り出す。
それは、職を辞す旨をしたためた文書――辞表だった。
彼は、処分を免れるつもりなど毛頭なかった。
……………
捜査書類をキリの良い所まで終え、ヴァルグレイは肩を回した。
一気に書き上げたためか、集中が切れた途端、どっと疲労が押し寄せた。
続けざま、辞表へと手を伸ばしたところで、頭がまるで働いていない事に気付いた。
ここ数日、ろくに眠れてはいなかった。
寝不足の原因はハッキリしている。
ハルネだ。
彼女に出会った日から、安らかな睡眠は絶望的となった。
ふいに、今朝方に会った、寝間着姿の彼女を思い出してしまう。
疲労で緩んだ思考の隙間に、ハルネの姿が入り込む。
ずれた肩紐。 寝グセの跳ねた苺茶色の髪。
その先に考えが及ばぬよう、衝動を抑え込むのに必死だった。
――ヴァルグレイは、二段目の引き出しを開けた。
ハルネの署名が残る書類。
焼け焦げたケープの切れ端。
その下から取り出したのは、二つのピアス。
一つは、自身が昨日身に着けていた、ハルネと揃いの琥珀のピアス。
そして、もう一つ。
桜の花びらを模した、ピアスがあった。
掌の上に乗せ、じっと見つめる。
その小さな重さを、しっかりと確かめる。
しばらく無感情に見つめていた。
だが突然、ピアスを握りしめると、机の横のゴミ箱へ叩きつけようと腕を振り上げた。
長い逡巡の末、それは……叶わなかった。
上げた腕をゆっくりと下ろす。
引き出しへ戻すことすら出来ず、桜のピアスを胸ポケットへと押し込む。
「……疲れているようだ」
独り言をつぶやきながら、眉間を指で揉む。
窓際に寄せてある応接用のソファが目に入った。
――ほんの少し休むだけなら、支障はないだろう。
重い身体をソファへと預け、そのまま横たわった。
腕で目を塞ぎながら、先ほど自身から沸き上がった衝動的な欲望を、深呼吸で押さえ込む。
呼吸を整えていると、睡魔が忍び寄ってきた。
眠りに落ちる寸前、彼の脳裏にハルネの姿が浮かぶ。
それは、馬車の中で甘えた上目遣いを向け、その身を自分に預けてきた彼女だった。