【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第38話 いつもの温度
お昼の南街。
商店街の中央へ近づくほど、人波と賑わいは増していく。
石畳の道には馬車の轍が残り、時折、鈴の音と共に馬車が通り過ぎてゆく。
ハルネとヴァルグレイは、人通りの多い中通りを、知り合いの家具屋へと歩いていた。
つかず、離れず、追いつかず。
ヴァルグレイは、ハルネの歩みに合わせてゆっくりと。
ハルネもそれに気付き、少しだけ足早に。
香房を出てから、二人に会話はなかった。
その代わりに。
特別な絆のヒモが、ピンと張られているように見えた。
―――――――
(ずっとこのまま黙ってるのもイヤだな)
営業再開で心機一転、改めて大掛かりな模様替えもしようと考えたハルネ。
家具の調達へと話が移り、まるで当然のようにヴァルグレイが付き添った。
しかし、香房を出てから二人は何も喋らない。
人との繋がりを求めるハルネに、この沈黙の時間は耐えられなかった。
あれこれ考え、決意する。
「あの! オジさま!」
往来の端、馬車道に近い場所で足を止め、ヴァルグレイに向き合うハルネ。
足を止めた二人を避けるように、ゆっくりとまた一台、馬車が通り過ぎて行く。
「…………」
「…………」
話しかけたはいいものの、会話の内容は全く考えてはいなかった。
(……しまった、勢いだけだった。 うぅ~、こういう時は…………ご飯!)
「お、オジさまは、朝ごはん食べたの?」
「……局で済ませてきた」
「え? あの調査局内にご飯食べれる所があるの?」
「……泊まり込みの仕事も多いので、軍用の糧食をいくつか分けてもらっている」
「え~? 糧食ってちょっと興味あるけど、美味しいの? それって?」
「……美味くはない」
「もー、ダメだよ。 ちゃんとしたもの食べなきゃ。 糧食って簡易携帯食でしょ? 栄養も偏っちゃうよ」
「……気にした事はなかった」
(なんだ……全然話せるじゃん!)
普段通りの軽い会話を交わせたことに驚く。
ハルネの表情から硬さが消え、いつものニコニコとした笑顔が戻ってくる。
「もー、気にしなきゃダメだよ。 ちゃんと朝は温かいモノ食べてさ。 朝ごはんは一日の活力なんだから!」
「……以後、気を付ける」
「んふふ、素直なオジさまだ。 でも糧食って興味あるな~。 どんなものなの?」
「……乾燥したフルーツに、ナッツに、黒パン、そういったモノだ」
「へぇー、お肉……干し肉とかは? 入ってたり?」
「……ああ、ジャーキーが入っている事もある。 非常にスパイスが効いていて、酒には合う」
ジャーキーという単語に、思わずハルネの目が輝く。
「お? オジさまにそこまで言わせるなんて。 そんなに美味しいの? ……じゅる」
「……ふっ、キミは食の話になると、実に楽しそうだな」
「うん、そうだよ。 ちょっと恥ずかしいけど、食べるのも好き、食べ物のお話も好きなの。 みんなそうじゃないの?」
「……いや、すまないが、私はあまり」
「ううん、興味あるよ、オジさまも。 お酒が好きって話もしてくれたし、今だって美味しいジャーキーの話もしてくれた」
「……そう、かもしれないな。 食には興味が無いと自分では思っていたが、案外そうなのかもしれない。 ……ふっ」
柔らかい表情を見せたヴァルグレイに、ハルネの胸に小さな高鳴りが生まれる。
こうして、いつもの会話を交わせた事が嬉しかった。
(楽しい! ちゃんと話せるじゃん……良かった!)
以前と同じ温度を保てることにホッとして。
言葉を交換できる嬉しさに、思わず頬がほころんだ。
「ウチの香房でも、そういう携帯食とか作れないかなーって考えてみたことあるの。 だけどスパイスはいっぱいあっても、お肉がネックなのよね~」
「……確かに、糧食の干し肉はやけに上等な物だった気はする」
「ねえ、今度さ。 それをあたしに差し入れてよ、オジさま」
「……構わんが、そんな粗末なモノをキミに……」
「いいの。 でさ、それを持ってピクニックしよう? せっかく携帯食なんだし。 西街の農村地区で、天気の良い春日和に、さ」
「……キミが、それで良ければ」
「やった! 約束だからね!」
小さな約束を取り付けられた嬉しさで、ハルネの足取りは軽くなる。
「でもさ、やっぱり朝はちゃんと食べなきゃだよ。 それは話が別だよ」
「……善処する」
いつの間にか、話しながら歩く足は、石畳の端へと寄っていた。
店先に積まれた木箱を避けたついでに、ハルネは、わずかばかりの勇気を出した。
「…………だからさ。 今度もさ、あたしの家で、朝ごはんを……」
「危ないッ!!」
「えっ?」
返事をするより先に、視界いっぱいに黒い影が膨れ上がった。
馬の荒い息。 石畳を叩く蹄の音。 軋む車輪。
気付いた時には、馬車がすぐ目の前まで迫っていた。
反射的に動いたヴァルグレイの身体が、ハルネの身体を庇い、壁際に素早く引き寄せた。
――石畳に激しい蹄音を轟かせ、馬車はあっという間に通り過ぎて行った。
背中に冷たい感触。
人目の少ない建物の壁に、ハルネは軽く縫い留められている。
勢いがあった割に、衝撃が殆ど無かった。
代わりに彼女が感じているのは、腕の逞しさと、胸の温度。
そして、濃密な、異性の香り。
ヴァルグレイはハルネを覆い止めたまま動かない。
彼の顔は、彼女の柔らかな髪に深く埋もれている。
呼吸のたびに、苺茶色の髪がわずかに揺れ、鼻奥へとその空気が落ちてゆく。
抱きしめる腕の力が緩むことはなかった。
「……ぁ、あの、オジさま」
もう大丈夫――そういう意味のつもりで、彼の耳元に囁いた。
抱擁されていたせいか、やけに掠れて吐息が混じった声になっていた事に、彼女は気付かない。
その声が、引き金になった。
――ぎゅうっ
ヴァルグレイは、より一層、力を込めて、ハルネを抱き締めた。
「……あっ……んぅ!……」
抱きしめられたハルネが、呻く様な声を上げた。
その声に当てられたか、さらに抱擁に力が籠められた気がした。
「……ぅ……く、苦し……」
ハルネは苦しさから身をよじる。
それでも離れる事はせず、ヴァルグレイの背中へ回した腕に力がこもった。
互いの境目がなくなり、ハルネの顔にかかる灰銀の髪が、苦しげな吐息に揺れた。
――時間にして数秒。
ゆっくりとヴァルグレイの腕の力が緩み、二人の距離が離れる。
ヴァルグレイは、最後まで名残惜しそうにハルネの身体から手を離す。
そして、自身の顔を手で覆い、動きを止めた。
「……………………す……まない」
その謝罪は、静かで、ひどく重かった。
苦悶の末から絞り出したような、後悔の混じる声。
顔を伏せ、手で顔を覆ったままのヴァルグレイ。
しかし、いつまでもハルネからの返答がない事が気になった。
――もしや、ケガでも?
そういうヘマだけは犯さなかったはずだが、顔を上げ、彼女の顔を見て驚いた。
ハルネは、名残惜しそうな手を差し出したまま、大粒の涙をはらはらと落としていた。
まるで、大事なモノを取り上げられたような表情で……
「あ……あっ……ち、ちがうの! これは! …………ぅく……」
「…………ハルネ、嬢」
ハルネは、涙を自身の手の甲で拭い上げる。
しかし、はたはたと止めどなく落ちる雫は、留まる気配を見せなかった。
「ち、違うの! ……っ……なんで?…………ごめ、んなさい、違うの……これは」
「…………」
涙を拭い続けるハルネに、ヴァルグレイは何一つ行動を起こせなかった。
「い、イヤじゃないの……これは……ふぐっ……怖く、て…………温度が……ココロも、いっぱいになっちゃって……」
声を震わせ、しゃくりあげ続けるハルネ。
また一粒、涙が零れた。
「……ご、ごめん、なさいぃ」
二人は、お互いに視線を外すことはなかった。
ヴァルグレイはそっと、止まらないハルネの涙を、指で一粒、拭った。
「お……お、オジさ、ま…………ごめ、ん……」
「……いい。 本当に、すまない」
ヴァルグレイは、胸元のポケットからハンカチを取り出す。
そして、その布で涙を拭う……事は無く、
ハルネの手に、ハンカチを握らせた。
彼は視線を外し、そっと彼女の隣へと並んだ。
密着せず、袖の触れ合う距離。
ハルネの涙が止まるまで、彼は何も言わず、その距離を離れなかった。