【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―

第57話 愚かなヴァルグレイの物語 其の一



「うっ……ぐすっ……」

 ステンドグラスを透かす夕射しが、涙に濡れる彼女を美しく照らす。
 吹き込む風に揺れる苺茶色の髪が、儚さと健気さを感じさせた。

 それはまるで、春の幻のようだった。

 そして、そんな彼女の姿を、死角から覗き見る者がいた。

 ……私だ。

 そして気付く。

 これはあの日の夢だ。
 愚かで、みっともない、あの時の私だ。

 私は、あの日からずっと、彼女に心を絡め取られている。



―――――――



 そこは西街の往来。
 真っ直ぐに進めば乗合馬車広場へと続く中通り。

 そうだ……

 あの日の私は、婚約破棄事件の聞き込みをしていた。

 それは本来は一般捜査員がやるべき仕事だった。
 だが、局長に嘯いて現場に出た手前、ある程度の雑務も織り込んでいた。

 そんな折、私は見つけてしまった。


 ――運命の、女性(ひと)を。


 健康的で柔らかな、丸みを帯びたシルエット。
 目尻の下がった無垢な瞳。
 凛とした意志を感じさせる眉。
 陽射しに反射するふんわりとした苺茶色の髪は、彼女の優しい空気を体現していた。

 まるで、春の陽射しをそのまま象ったように、雑踏の中であたたかく輝いていた。

 自分が、女性をなんとなく嫌っている自覚はあった。
 だが、彼女もまた女性なのだという当たり前の事実すら、この時は頭からは抜け落ちていた。

 それほどに、奪われていた。

 光に惑わされた虫のように、私は彼女に吸い寄せられていく。

 視線はやがて、彼女の豊かな身体の線へと落ちていき……
 私は彼女を、どうしても手に入れたくなった。


 ……枯れたハズの自身の欲望が、鎌首をもたげる。


 その……

 どうしようもなく、陽気で。

 どうしようもなく、無防備で。

 どうしようもなく、匂い立つその肢体を。

 触れてはならないと知りながら、男としての視線を向け続けた。


 …………視たい。


 視たい。

 視たい。

 彼女の色を。

 彼女の感情を、この眼で感じ取りたい。

 理性よりも先に、指が眼帯へと伸びた。
 ほんのわずかに持ち上げる。

 彼女から滲み出た色を、映しとった瞬間……


「だ、誰さっ!?」


 !?
 反射的に眼帯を戻す。

 気配は消していたつもりだった。
 しかし彼女は恐るべき勘の良さで、私の視線を感じ取った。

 …………気づかれたか?

 とっさに身を隠した自分の胸の鼓動が、いつにない程に激しく脈打っていた。

 彼女はこちらの方向から視線を切らない。
 確信を持っているかのような様子だった。
 私は、呼吸と鼓動を整えるのに必死だった。

 やがて彼女は、意を決したように、路地裏へと足を運んだ。

 ……魔眼への憎しみ、彼女への罪悪感。
 そのようなものは、この時は一切感じる事はなかった。

 ただ、彼女を、もっと見たかった。



―――――――



 往来のざわめきは、路地を一つ入っただけで遠くなった。

 彼女は、路地裏の樽の影で仔猫のように身を縮めていた。
 私は、見えない位置から屋根に上り、彼女の死角となる場所から様子を窺う。

 名乗るという発想はまるで無かった。
 むしろ、怯えた彼女の姿すら愛おしい、という興奮を覚えていた。

 私は、一瞬たりとも見逃すまいと、彼女の姿を焼き付ける。

 そのうちに彼女は、何かから逃げるように裏路地を走り出した。
 私はそれを追いかける。

 音も立てず、言葉も発せず、彼女を追いかける。

 彼女が、私もよく知る教会へと逃げ込んだ際には、まるで獲物を捕えたかのような、奇妙な独占欲すら感じていた。

 手早く死角に位置取り、長椅子に座った彼女を、再び見つめ続けた。
 教会の中は、外よりもひどく静かだった。

 高い位置に備え付けられたステンドグラス。
 透かされた夕射しが、色とりどりの光の雨を降らせている。

 厳かな光は、彼女の丸みを帯びた身体をやさしく彩っていた。

 愁いの表情を見せる彼女は、まるで女神のように見えた。
 私は無意識に、胸に手を置いていた。

 ……だが、私の奇妙な高揚も、そこまでだった。

 
「うっ……ぐすっ……」


 耳に届いた、嗚咽まじりの声。 
 

 ゾッと、一気に肝が冷えた。
 

 黒い感情が刹那に消え失せ、背中からどっと汗が噴き出す。

 自分が何をしていたのかを、ようやく理解する。

 彼女を泣かせた――その事実に頭が真っ白になった。

 今すぐ謝罪したかった。
 だが、姿を見せれば、彼女の怯えを助長させるだけだ。

 どうすればいい? 一体、どうすれば……

 ふと、教会のすぐ傍に、顔見知りの神父の家があった事を思い出す。

 そうだ。
 彼に、彼女を慰めてもらうのだ。

 他に考えは浮かばなかった。



……………



 彼女は泣き止み、いつの間にやら笑顔すら取り戻していた。

 ……愛らしい。
 そして、良かった。

 せめてもの慰めになればと、いつも身に着けていた銀のロザリオを神父に託していた。
 これを、機を見て彼女に渡してほしいと。 罪滅ぼしのつもりだった。

 大通りを元気よく駆けていく彼女を見送る。

 これでいいんだ……

 さきほどまでの、まるで正気でなかった自分を思い出し、ゾッとする。
 あんな事は初めてだった。

 今も、彼女の表情を思い出すだけで、正気を失いそうになる。

 ……忘れるべきだ。

 これ以上、彼女を傷付けないために、怖がらせないために……

 その未練と激情を断ち切るかのように、私は、外壁に拳を叩きつけた。


――だが、私の過ちは、これで終わる事は無かった。


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