【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第59話 祭壇
浅い眠りだった。
夢の残滓が、まだ意識の底にこびりついている。
あの声も、色も、柔らかさも……
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、そこには見慣れた副局長室の天井。
深い呼吸を一つ。
吐いた息が、そのまま自分の気分の重さを引きずっていた。
身体を起こす。
短い睡眠でも、疲労が多少は和らいだようだ。
だが、胸の奥には泥のようなものが沈んでいる。
あの日の感情を掘り返した忌々しい夢を恨む。
私は、のそのそと机へ向かった。
―――――――
あの営業停止を命じた時点で、職を失う覚悟はとうに出来ていた。
そのための、辞表だ。
調査局副局長の権限は強い。
濫用は決して、許されない。
しかし、彼女を守れなくなる事態だけは、回避せねばならない。
そのための上申書へ、自分が捜査に必要である理由を書き連ねていく。
最後には情にさえ訴えた。
なりふり構ってなどいられなかった。
ひと段落書いた所で、深く息をつく。
短い睡眠を取ったとはいえ、まだまだ寝不足には違いない。
細かい文字を追うだけでも、目の奥に疲労が溜まっていく。
目の付け根を揉みながら、しばし手を止める。
――眼帯を外してしまおう。
もう随分と遅い時間になってしまった。
どうせ誰も来やしない。
左目の眼帯を外し、明かりの眩しさに慣らしながら、再び書類との格闘を再開する。
以前はどんなに疲れていても、仕事中に魔眼封じの眼帯を外す事など思いつきすらしなかった。
呪いを断ち切ったワケでもない。
人の本性は、やはり悪意だ。
そう考える私の根底は、今も変わらない。
だが、こうやって、自ら眼帯を外そうと思えるようになったのも、全ては彼女のおかげだった。
苦しみは消えない……が、以前ほどでは無い。
彼女の前向きな信念は、間違いなく私に影響を与えていた。
その一方で覚えてしまったのは、彼女への罪の意識と……執着。
今朝会ったばかりだ。
それなのに、もう彼女の声を聴きたくなっている。
さきほどの夢のせいだろうか?
両目を閉じ、昨夜の彼女のドレスを思い出す。
可憐な姿だった。
彼女が「ゼオファルドの妻」と名乗るたび、なぜだか私の方が誇らしい気持ちになった。
晴れがましさとも、独占欲ともつかない何かが、胸を満たしていた。
……そんな資格など、私には無いのに。
彼女を求める度に、罪の意識が蘇り、そこからまた彼女を想い……
その連鎖は、私の頭を一層おかしくするのには十分だった。
今も、そうだ。
二段目の引き出しを開ける。
そこには……
彼女の署名の書かれた書類。
彼女に贈ったロザリオの替えのチェーン。
彼女が身に着けていた焼け焦げたケープの切れ端。
彼女と揃いの琥珀のピアス。
そして……
「む……」
もう一つあるはずの物が無い事に気付く。
すぐに、ひと眠りする前に胸ポケットに入れた事を思い出し、取り出す。
桜を象ったピアス……
ハルネに琥珀のピアスを贈る際、彼女から預かった物。
私は、それを預かってすぐに、当たりを付けていた小物屋に走り、同型の品を手に入れた。
……すり替えるつもりだった。
だが、受け取る際に、彼女が大切そうに扱っていたのが引っ掛かった。
「じゃあ、お願いします」と、私を信じる無垢な彼女の表情が、残っていた良心に強く刺さった。
今朝方、シャリエナ嬢に「色が違う」と指摘された時はヒヤリとした。
私の疚しさを感じ取ったのだろうか?
しかし、それは杞憂だった。
――結局、すり替える事は出来なかったのだから。
不要となった、偽物の桜のピアス。
それでも、彼女が身に着けているものと同じというだけで、捨てられずにいた。
役目を失ったはずの軽いピアスが、やたらと重く感じる。
掌の上の桜の花弁が、何かを責めるようにきらりと光る。
今は決心がつかない、と、桜のピアスを引き出しへと戻した。
そして、いつものように、焼け焦げたリボンケープの切れ端を取り出す。
彼女が、直接身に着けていたモノ。
あの日の彼女が、身に着けていたモノ。
焦げた布からは、もう彼女の香りなど残ってはいない。
両手でそっと包み、祈りを捧げる。
こうして彼女の残滓に縋りつく事でしか、正気を保てなかった。
彼女を傷つけた負い目。
救ってくれたことへの感謝。
その志と信念への畏敬。
そしてそれ以上の、焦がれ……
どの思いも正しく、どの思いも苦しい。
嗚呼、せめてもう一度だけ教えてくれ、ハルネ。
この感情を、一体何と呼べばいいのか。
願わくば、私を許…………さないでくれ。
――私は、もう、狂っている。
―――――――
ヴァルグレイが書類を書き上げた頃にはすっかり深夜だった。
呼び出されている手前、向かわないワケにはいかなかった。
局長も、自分に負けず劣らず忙しい身ゆえ、まだ局長室にいるだろうと当たりを付ける。
書き上げた上申書を手に取り、辞表を懐へ収め、彼は深く息を吐く。
右手を広げ、じっと見つめる。
やがて、強く握り締めた。
「……何があっても彼女を守る」
まるで決意を新たにするように、それを口に出した。
――全てが終わった後、彼女から、離れるべきだ。
彼は椅子から立ち上がる。
机上に残したままのケープの切れ端に気付いた。
彼は、焼け焦げたリボンケープを指でなぞり、折り目をきちんと整える。
そして、それをそっと二段目の引き出しにしまい、部屋を後にした。