【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―

第60話 局長の沙汰と、置き土産



――コンコンっ


「入れ」


 ノックし、扉を開けた瞬間、空気の質が変わる。

 局長室には、副局長室のような張り詰めた整然さはない。

 部屋の中央には、質の良い応接テーブルとソファが置かれている。
 両側には重厚なブラウンの書棚が並び、部屋の主の地位に相応しい格調を漂わせていた。

 奥に鎮座する局長机には、書類が幾層にも積み上げられていた。
 それらは不思議と雑然さを感じず、奇妙な均衡が見てとれる。

 応接テーブルの上に置かれたままの飲みかけの茶器。
 高級な茶器は、準男爵でもある局長の趣味の高さがうかがえたが、中身はもう随分と冷めていた。

 ヴァルグレイはその茶器を一瞥した後、机の男に視線を向ける。

 第二調査局局長セーヴラン・セラント。

 姿勢良く椅子に腰掛け、片手で書類を繰りながら、もう片方の手で何かを書きつけている。


「いやあ、少し留守にしただけでこの有様だよ。 この手の書類って、すーぐ溜まっちゃうんだよね」



―――――――



 入室したままのヴァルグレイはじっと黙して佇み、セーヴランもまた黙々と手を動かす。
 カリカリというペン先の走る音だけが、静かな局長室に響いている。

 その沈黙を破ったのは局長であるセーヴラン。

 ある一枚の書類に手を付けようとした時だった。

「さっき……レルガくんがこの書類を持ってきたんだけどさあ」

 書類を手に持ち、ヴァルグレイに見せつけるようにピラピラと振った。

「彼さ……「寛大な処分をお願いしやす」って。 おっかしいよね? だってコレ……強制捜査の申請書の一部だもの」

 セーヴランは面白そうに書類を振り回す。

「”処分”なんて単語、どこにも繋がらない。 だからさ、聞いてみたんだよ。 「何が?」って。 そしたら彼、なんて言ったと思う?」
「…………」
「「自分の口からは言えやせん」だって! ハッハッハ!」

 セーヴランは書類を手にしたまま、楽しそうに手を叩いた。

「なぁ、面白いよな? ヴァルグレイ?」

 ヴァルグレイはその問いに対し、表情を変えず、じっと佇んだままだった。

「そういえばさあ、もう一つ、面白い話を聞いたんだよ」

 書類を机に置き、セーヴランは席を立つ。
 そのまま、ドア前に佇むヴァルグレイの元へ歩み寄った。

「なんでもウチがさあ、不当に、市井の店の営業を止めたとかなんとか」
「…………」

 セーヴランの歩みは、ヴァルグレイの一歩前で止まった。

「知ってたかい? まさか、ウチでそんな真似するヤツなんてさあ、いるはずないよね? ハッハッハ!」
「…………」

 再び楽しそうに笑うセーヴラン。
 しかしその細く鋭い目は決して笑ってはいない。


「ハァ……面白くないのかい? ヴァルグレイ? ……そうだな。 お前には笑えんか」


 空気が――凍った。


 ヴァルグレイは一言も発しない。

 背の高いヴァルグレイの沈黙にも、セーヴランは微塵も怯まない。
 細く鋭い目だけが、彼を射貫く。

 押し黙る二人の様相に、重い沈黙が落ちる。

 先に動いたのはヴァルグレイだった。
 目を伏せ、手に持った書類とは別の書類を懐から出そうとしたが……

「なんてな」
「……?」

 急に手を広げ、緊張を抜くセーヴラン。
 ヴァルグレイもそれに釣られたように、毒気を抜かれ、懐に入れていた手を思わず下ろす。

 拍子を外されたヴァルグレイに対し、セーヴランは軽い口調で提案を口にする。

「外へ出ないか?」



―――――――



 四方を石造りの壁に囲まれた、調査局の中庭。
 外界から切り離された静かな庭園には、涼しい夜気が流れていた。

「いやぁ、今日は風が涼しいね」

 石畳の小路に、中央には控えめだが見事な花壇。
 色とりどりの花が咲く花壇の前に、いくつかの木製のベンチが置かれている。

 セーヴランはそのベンチの一つにさっさと腰を下ろし、ヴァルグレイはそれを見下ろしていた。

「何をしているのかね。 隣に座りたまえよ」

 バンバンと自分の隣の座面を叩き、隣へ座るように促す。

 付き合いは長いが、ヴァルグレイには今の局長が何を考えているのか、窺い知れない。
 大きく一息をついた後、セーヴランの隣に腰を下ろす。

「昨日、舞踏会に潜り込んだろう? ギリギリで参加を捻じ込んだらしいね? 侯爵にチクっと言われちゃってさあ。 まあ大した事ではないのだがね」
「…………」
「うーん、キミは相変わらず無口で……分かりやすい男だなあ」
「……申し訳ありません」

 ヴァルグレイは居住まい正しく席を立つ。
 そのまま、セーヴランに向けて綺麗に腰を折った。

「何がかね?」
「……濫用の、件です。 完全な私情で、市井の店を営業停止にしました」
「ああ……自分から言っちゃうの? それを」
「……もう、御存じなのでしょう?」
「まあまあ、とにかく座りたまえよ」

 再び、バンバンと自分の隣の座面を叩くセーヴラン。
 ヴァルグレイはそれに大人しく従う。

「私はねえ、正直嬉しかったんだよ」
「……嬉しかった?」

 意外なセーヴランの言葉に、怪訝な表情を向けた。

「ああ。 クソ真面目なキミが、一体どういう理由でこんな事をしたんだろう、と」
「…………」
「事由も見て思わず笑ってしまったよ。「符号が揃い過ぎているため」って……フフっ、もうちょっとマシな言葉を考えたまえよ」
「……それは、申し訳ありません」

 楽しそうなセーヴランの様子に、どこか釈然としない様子のヴァルグレイ。

「繰り返すが、”クソ”真面目なキミの事だ。 地位や金のために動くなど、まずあり得ん。 と、すると思い当たるのは「部下」か「女」だ」
「…………」
「真っ先に部下のやらかしを疑ったが……一昨日だったか、リオーネくんが私に直訴しに来てね」
「……リオーネが?」
「「寛大な措置をお願いします」だってさ。 な? 面白いだろう?」
「…………」
「私はその時も同じことを聞いたんだ。 「何がかね?」と。 そしたら「直に分かります」だってさ」
「…………」

 顔を伏せるヴァルグレイ。 セーヴランはお構いなく声高に続ける。

「それで分かったんだ。 これは部下の不始末じゃあない。 本人に付帯するもの……「女」だって。 いやあ、部下に好かれているねえヴァルグレイ? ハッハッハ!」

 手を叩いて笑うセーヴラン。
 薄暗くランプに照らされた静かな庭園に、彼の笑い声が響いた。

「……いえ、これは、私情での越権行為です。 彼女は関係ありません」
「くだらない言い訳はやめたまえよ! らしくないなぁ、ヴァルグレイ。 さきほどからのキミの態度を見て、ますます確信したよ」
「…………」
「それに、キミは知らんかもしれんがね。 調査局内はとうにその噂で持ち切りだよ? 昨日の件で、市井の人をパートナー役として抜擢したんだから。 当然だろう?」
「……ぐっ」

 ヴァルグレイは、ついくだらない言い訳をしてしまった事を後悔した。
 付き合いの長い局長が相手だからか、思わず表情にも出てしまう。

「もう一度言うがね。 私は嬉しかったんだよ。 仕事の鬼だったキミが、女に狂ってるっていうのがおかしくてね」
「…………」
「キミを仕事漬けにしてしまっている事に、多少の後ろめたさはあったんだが……もうそれは必要ないな! 若いじゃないか、ヴァルグレイ! ハッハッハ!」
「…………」

 ヴァルグレイは再び顔を伏せる。

 否定できる言葉を、何一つ持っていなかった。


「フフっ、私にとっては喜ばしい事だったが…………越権行為には変わらん」

 急にトーンを変えるセーヴラン。

 細い目が鋭く光ったような気がした。

 ヴァルグレイはそれに気付き、居住まいを正す。

「調査局の権力は大きなものだ。 一市民であれば、いともたやすく人生を変えてしまえる」
「……理解しています」
「ふっ……本当か? お前が手を下したその店の娘は、果たしてどう思っただろうな」
「う……くっ……」

 セーヴランの口調は軽い。 が、目は笑ってはいなかった。
 強く刺されたヴァルグレイは、痛みに堪える表情を隠すことは出来なかった。

「痛いか? だが彼女の方が痛いんだ。 権力を濫用するとはそういう事だ。 我々は組織人として、私情という過ちを犯してはならない」
「…………はい」
「だが長年、公の仕事に立派に従事してきたキミに対し、一度の過ちで切り捨てるというのは、まぁ……私の気分も良くない」
「……はい」
「ケジメは必要だ。 処分は追って下す。 しかし今は……この事件を最後まで責任を持って解決すること」
「……了解しました」
「だから、こんなものは……」

 セーヴランの手がヴァルグレイの懐に伸び、折り畳まれた書状を奪い取る。

「……っ」
「必要ない」

 奪い取ったそれを広げることもなく、セーヴランはビリビリと引き裂いた。
 書状は細かな紙片となり、二人の足元へ散っていく。

 ヴァルグレイが用意していた辞表だった。

「さしあたっての話は以上だ。 励めよ! ヴァルグレイ!」

 早々に席を立ち、振り返る事なく去るセーヴラン。

 辞表の事も、内心の覚悟も、全て見透かされていた。

 しかし、処分を保留し、事件を最後まで任せてくれるという上司に対し、ヴァルグレイは深く頭を下げた。

 ……が、セーヴランはふと立ち止まる。

「ああ、そうそう。 お前に言伝があったんだ」

 顔だけをヴァルグレイの方へ向け、まるで軽く、ついでのように言った。

「さっき……エスタラン侯爵にチクっと言われたと私は言ったよな? その時にな、ルシアン令息も同席していて……」

 セーヴランは面白そうな表情のまま……

「ゼオファルド卿と同行していた女性と、もう一度会わせてほしい、だと。 一目惚れだそうだ。 よほど気に入ったんだろうな。 熱の入った口調で、可能であれば婚約したい、と」

 そう、なんでもない事のように言い放つと、再び前へと向き直し……

「じゃあな。 確かに伝えたぞ」

 今度はヴァルグレイの方を振り返りもせず、軽く手を上げ、去っていった。



……………



 セーヴランが去った後、ヴァルグレイはベンチに座ったまま動けずにいた。

 最後に残された言伝だけが、頭を中を駆け巡っている。

 処分を免れて良かった。
 これで事件を最後まで追える。

 そのような安堵は、もう頭から消えていた。

 自分と同行していた女性。
 間違いなく、ハルネのことだ。

 一目惚れ?

 ハルネに?

 誰が?

 ルシアン令息が?

 その時、胸中を突きあげたのは、未だかつてない激しい焦りだった。

 局長と会う直前までは「彼女と離れるべきだ」と決意していた。
 しかしもって今は、その決意は、跡形もなく消えていた。


 ハルネが誰かに盗られるかもしれない……
 

 無意識に握りこんだ拳がガクガクと震えた。

 ハルネに対する執着は自覚し、抑え込んでいた。
 しかし……


 自分以外の誰かが、ハルネの隣に収まる。


 その光景を想像した瞬間、目の前が白く染まった。
 そして、腹の底から湧き上がってくる、底知れぬ……怒り。


 昨夜の馬車を思い出す。

 蜂蜜のような、花茶のような、甘ったるい濃厚な香り。
 腕の中で確かな重みを残した、肉感的で柔らかな肢体。

 自分に甘える……琥珀色の、潤んだ瞳。


――甘い温もりの残滓の数々が、脳裏に蘇った。


 優しく自分の髪を撫でてくれた、慈愛の手。
 陽気で、元気な、生命力溢れる……愛らしい声。


 アレが、ダレかの、モノにナル?

 ワタシ以外の……


――ギリッ!!


 食いしばり過ぎた歯が激しい音を鳴らした。
 呼吸も乱れ、瞬きすらおぼつかない。

 この感情が何なのか、ヴァルグレイにはまだ分からなかった。

 ただ、闇色の炎だけが、胸の底から激しく立ち上がっていた。


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