【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―

第61話 今日のヴァルさまは甘えたさん



 翌朝、身支度を整えた私が向かったのは、調査局ではなかった。

 まだ人の気配がまばらな朝。
 見慣れた木製の看板が春風に揺れる。
 窓辺の花に留まっていた鳥たちが、囀りながら石畳へと降りていった。

 ベニヤ板に貼られた「休業」の貼り紙。
 これを目にする度に胸が痛んだ。

 しかし、今はそれを気に留める余裕すらなかった。

「毎度! じゃあ頑張ってな」
「マーレンさんもね。 細かい家具も今度入れるからまた勉強してね」
「ハルネちゃんはホントしっかりしとるねぇ」

 入り口から、ハルネと共に、三人の男が出てくる。
 話しぶりからして、先頭の中年男が家具屋の主らしい。

 気配を隠すこともなく、ぼうっとその場に立っていた。
 男達を見送っていたハルネが、目ざとく自分を見つける。

「あっ……ヴァルさま!」

 ぱぁっと太陽のように明るくなった表情で、こちらに駆け寄るハルネ。
 その笑顔を見ているだけで、身体に活力が漲っていくのを感じていた。

「…………この笑顔を……」
「うん? 何?」
「……いや、何でもない。 おはよう、ハルネ」
「えへへ、おはよう! 今日はどうしたの?」

 私はその問いに対する答えを持ち合わせてはいなかった。

 昨夜から続く、安定しないままの感情。
 フラフラと足を向けてしまったのが、ハルネのいるサフラン香房だった。

「あっ! 道端で立ち話もなんだね。 入って入って!」

 ハルネは、強引に私の袖を引っ張り、中へと導く。

 抵抗する気にはならなかった。



―――――――



 香房に入ってすぐに目に入ったのは、薄いピンク色の大きな商品棚だった。

 上部にある大きな飾りアーチが、洒落た作りになっている。

「……なるほど。 さきほどはコレを搬入していたのか」
「オシャレでしょ? ちょっと高かったけど買っちゃった!」

 腕組みをしながら胸を張り、ふんすと満足げな顔で棚を眺めるハルネ。
 押し上げられた豊かな膨らみが、柔らかくゆさりと揺れた。

 ハルネを横目には見ていたが、思わずそれに目が吸い寄せられた。

 普段ならば、即座に視線を逸らしている。
 だが今日は、そこからさらに、みずみずしい唇へと視線を滑らせてしまう。

 邪な視線に自ら驚く。
 振り払うように顔を背けた。
 見なかったことにしたいとばかりに、眉間を強く揉む。

「? 頭痛いの? ヴァルさま?」
「……いや、そうでは無い。 ……が、本当に済まない」
「??」

 意味の分からない謝罪をしてしまったが、特に気にしない様子でハルネは尋ねる。

「そういえば、今日はどんな御用なの?」
「…………ああ」

 思わず生返事をしてしまったが……何と言ったモノか……

 無意識にフラフラとここへ来てしまったが、考えられる理由はいくつもあった。

 焦燥感に駆られて……

 ハルネの顔が見たくて……

 声が聴きたくて……

 どれもが伝えられるものでは無かったし、適切では無かった。

 一番の理由は……


――この胸のざわつきを、キミなら鎮めてくれる気がしたからだ。


 もちろん、言えるはずも無かった。

「ん~? どったの? ヴァルさま、今日は様子が変よ?」
「……いや」

 顔を覗き込もうとするハルネから、もうすっかり覚えてしまった花茶のような香りが舞う。
 鼻腔をくすぐり、心をさらに掻き乱す。

 混迷極まる心に、寝不足気味の頭。
 さらには正体の分からぬ焦燥感から、自分でもまったく思ってもみない事を口にした。


「……食事を、作ってくれないか?」


 何を言ったのか、一瞬理解ができなかった。
 彼女の香りに包まれて、以前振る舞われた朝食の温かさを思い出してしまったか。

「なになに? んふふ~、ヴァルさま、あたしのご飯食べたいの? もう、しょうがないなぁ~」

 しょうがないと口にしつつ、見た事もないくらいに機嫌の良さそうな笑顔のハルネ。

 そのような顔で応えられてしまっては……

 私は、前言を撤回する機会を失った。

「シャリエナ~……は、今いないんだった。 まあいいか、朝ごはん一丁ぅ!」

 ハルネの元気な声とともに、店の奥の家屋へと引っ張りこまれた。



―――――――



「待っててねー、そんなに時間かからないからさ」

 ハルネは、手慣れた様子で食材を切り、フライパンを転がし、ポットを温める。

 私は、キッチン前のテーブルに座らせられていた。

 どこか手持ち無沙汰に、ハルネの背中をぼんやりと見守る。

 目の前にはハーブティーの淹れられた湯飲みが一つ。
 キッチンに入ってすぐに、ハルネが淹れてくれたモノだ。

 こういうささやかな気遣いもまた、彼女の優れた一面だとあらためて見直す。


「ふんふふんふ~ん、たんたんたたん、とぅららー」


 機嫌の良さそうなハルネが、愛らしい鼻歌交じりに、手際よくキッチンを回す。

 遠い昔、誰かに無条件で世話を焼かれていたころの記憶が蘇る。

 自分の我が儘を聞いてくれて、自分のために手間を掛けてくれるハルネ。


 温かい……


 目の前に彼女がいるだけで、それだけで心がじんわりと温まる。

 後ろ姿を見ているだけで、知らない何かで満たされていくようだった。
 ……だが、この温もりも……

 ほどけかけた心の奥で、暗いものが再び燻り始める。

「あい、出来たよー」

 ハルネの陽気な声は、ほの暗い火種すらも、かき消してくれた。



……………



 溶けたバターが乗せられたトースト。
 隣に添えられた、ソースが掛かった厚切りのロースト肉と炒った卵。
 それに、かるく胡椒を振った野菜たっぷりの温かいスープ。

「簡単な物だけど、お肉は美味しーよ」

 一つ一つが家庭的で、どれもがきちんとした一手間が加えられた料理だった。

「エスタラン侯爵さまの所で食べた軽食の方が、美味しいかもだけど」
「……そんな事は全く無い。 どれもが私にとって、コレ以上ないほどの馳走だ」

 ハルネの謙遜に返した言葉は、決して世辞では無かった。

 自分と最も縁遠いと思っていた温かい料理。
 以前振舞ってもらったパンケーキと同様に、どこまでも染みわたる味だった。

 ハルネは、食事をする私の前に座り、頬杖をついてジッと見つめる。

 その表情は、さきほどから変わらず、ずっとニコニコと、楽しそうだった。
 そんな彼女に見守られる朝食は、また一つ、彼女との大切な思い出の欠片となった。

「……馳走になった」
「はい、お粗末様でしたー。 コーヒー淹れるね」

 片付けも手際の良いハルネを手伝おうとするも、軽い動作で止められた。

 一緒に沸かしてあったのか、それほど間もなく目の前にコーヒーの入ったカップが、二つ並ぶ。

「……いきなり食事などを催促してしまって、すまなかった」
「いいのいいの。 むしろヴァルさまに、今日もちゃあんとご飯を食べさせられたんだから! 達成感よ! 達成感!」

 むん、と拳を握りこんでアピールするハルネ。

「そいで? 今日はどうしたのさ? 何かお話、あるんだよね?」

 両手に持ったカップでコーヒーを啜りながら、ハルネは確信したように問う。

 しかし、私は、またしても困ってしまった。

 そう。

 合理的な自分が、何の理由もなしにココへ来るハズは無い。
 ハルネは私の性質をよく理解していた。

「……理由が無くては、ダメなのか?」
「え!?」

 素直な感情が口に出た。
 ただ単純に、嘘を吐きたくなかった。

「う、ううん……理由が無くても会いに来てくれるのは、嬉しいよ。 ……うん。 いっぱい、会いに来てよ!」
「……ならば、その言葉に甘える事にしよう」
「甘える、かぁ……んふふ、そうだね。 今日のヴァルさまは甘えたさんだね」


 ああ……そうか。

 私はハルネに、甘えているのか。
 

 どちらにせよ、このまま仕事に戻っても、再びあの焦燥に胸を焼かれるだけだ。

 ならばいっそ……

 カップを包んでいた、ハルネの左手。

 手を伸ばす。

 そして、そっと両手で包み込んだ。

「あっ……」
「…………」

 ハルネは嫌がる事は無かった。
 少し戸惑った表情を見せた後、心配そうな様子を見せた。

「ヴァルさま、どうしたの? やっぱり何か……悩んでるの?」

 その声は、どんなものよりも慈愛に満ちていた。

「……悩み、では無い。 ……すまない、イヤでは無いか?」
「う、ううん、全然。 あたしの手で良かったら使って? ぷにぷにだけど!」

 自虐を含んだ言葉に引っ掛かりは覚えたが、黙ってその手を撫で続けた。
 満たされぬ想いが、さらに強くなった。

「……ハルネ。 頼みがある」
「な、なあに?」

 ……触れたい。

「……手袋を、外してくれないか…………キミの手で」
「…………うん」

 理由を問うことなく、ハルネは頷いた。

 手袋の中指の先をつまみ、ゆっくりと、一本ずつ丁寧に緩めていく。

 どこか緊張を孕み、しかし優しい手付きで、白い手袋を脱がせていく。

 やがては、素手が露わになった。

 自分の硬く節立った手の甲と、ハルネの真っ白で柔らかな手を見比べる。

 その肌の色とキメ細かさの違いに、欲望の鎌首がもたげかかった。

 ハルネの生唾を飲みこむ音が聞こえ、私は正気を取り戻す。

 ……大切に扱わなければ。

 ハルネの左手を包み込む。
 そっと……宝物に触れるように……

「んっ……」

 ハルネが思わず呻く。
 白くふっくらとした手は、驚くほど温かかった。

「……温かい」
「ヴァルさまの手は……ひんやりしてる」

 彼女の存在を確かめるように。
 彼女のカタチを確かめるように。
 ただひたすらに撫で続けた。

 包み込んでいた指を、ハルネの指の間へとそっと差し込んだ。
 ハルネは何も言わずに受け容れて、互いの指が、隙間を埋めるようにぴったりと合わさった。


 ……もっとだ。


 さらなる温もりを求めようと、絡み合う手を、ほんの少しだけ引き寄せた。

「……っ」

 ハルネの指が、ほんの一瞬、逃げるように抵抗を返した。

 しかし、それも刹那の出来事。

 やがて恐る恐ると、力を抜いてくれた。

 私はそのまま顔を伏せ、
 ハルネの存在の尊さに……祈りをささげた。



……………



 祈るように顔を伏せるヴァルグレイ。

 ハルネは、自らの右手を、彼の左手の甲へ添えようとした。

 しかし……
 その手は途中で止まった。

 この日、ずっと機嫌よく笑顔だったハルネ。
 その表情に、ふっと影が差した。


「ダメなのに……」


 小さな呟きと共に、大粒の涙が頬を伝い、テーブルの上にぽたりと落ちた。

 ヴァルグレイは、その涙に気付かない。

 顔は伏せたまま、絡める指の力が、わずかに強くなっていた。

 透明な祈りは、いつの間にか形を変えていた。


(……渡さない)


 さらなる温もりを求めるように、指先がにじりと蠢く。

 閉じていた右目がゆっくりと開く。

 その琥珀色の瞳の奥底には――鈍色の影が沈んでいた。



~ 第6章 ―完― ~


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