【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―

第76話 「それ以外は、考えた事もありません」



――ヴァルグレイとギルトハルトの決着がつく、少し前。

 二階の回廊には、奇妙な静けさが戻っていた。

 荒い呼吸を残し、不安げに視線を泳がせるハルネ。
 息一つ乱れておらず、優雅な佇まいを崩さないリセリーナ。

 さきほどまで、杖と細剣をぶつけ合っていた二人は、後ろで震えるアルテノット男爵には目もくれていない。
 緊張感を残しながらも、互いの様子を窺い合っていた。

 息を整え、ハルネは蜂蜜色に鈍く輝く瞳をリセリーナへと向けた。


「なんで……なんで、こんなことしたの?」

 あたしがずっと思っていた疑問が、ついに声に出た。

 さきほどから、手すり越しに階下を見ていたリセリーナさんが、こちらの方へと興味を戻す。

「なんで、とは」

 あたしと戦っていた時には楽しそうに笑っていたリセリーナさん。
 今は能面のような無表情に戻っていた。

「いや……だって、おおごとじゃん! こんな、色んな人を巻き込むような……」
「それで」

 彼女は淡々とした口調で答える。

「それが、何だというのです」

 まるで、あたしの方がおかしいみたいに、そう言った。

――彼女の感情色は、凪。 無、だ。

 背中に怖気が走った。

「何って……だって、どうして……どうしてなのさ!?」
「ああ、理由を知りたい、と。 そういう事ですか」

 リセリーナさんが、ようやく合点がいったように小さく頷いた。

「侯爵邸で、申し上げませんでしたか」

 エスタラン侯爵さまのお屋敷で?
 なんか、言ってたっけ?

「わたくし……」

 空いた手を、頬に当てる。


「旦那様の、困った顔が好きなんですの」


「……」
「……」
「……え? ……それだけ?」
「それだけですわ」

 続きを待っても、リセリーナさんはそれ以上何も言わなかった。
 本当に、それだけのようだった。

――感情色は、いつの間にか深いルビーレッドへと変わっていた。

 その紅い瞳と同じ、強烈な愛情色。
 あの時と同じ、肌を焼くような感情の熱まで伝わってくる。

「リセリーナッ!!」
「ひくっ!」

 突然の大声に、びくっと肩が跳ねた。
 それは、アルテノット男爵の、裏返った叫び声だった。

「ほ、本当に、そんな事で?? そ、そんな理由で、ここまでやらせたのか!?」
「あら……ステキなお顔ですわ、旦那様」

 男爵さまの絶望に満ちた顔を、リセリーナさんはうっとりと見つめていた。
 あたしの気持ちも、男爵さまと全く同じだった。

「こ、こんな、大変な事を、何か、キミなりの考えがあるんだと思って……だ、だって、この後どうするんだ!?」
「そこには興味はありませんの」
「き、興味って……そ、そんな問題では……」
「あぁ……すごく、ステキ。 わたくし、アナタのその顔が、とっても見たかったんですのよ」

 恍惚とした眼差しに、情熱を含んだ声。
 一方、その落差に追い詰められるように、男爵さまの顔色はみるみる蒼褪めていった。

 男爵さまがあまりに可哀想に見えたせいか、逆にあたしは冷静になっていた。

 彼女にもう一つ、聞いてみたいことがあった。

「どうして……男爵さまなの?」

 そう。
 ずっと気になっていた事だった。

「なんで男爵さまなの? どこが好きなの? もっと素敵な人がいるって思わないの? なんで……男爵さまを、選んだの?」

 気がつくと、次から次へと溢れるように質問していた。
 リセリーナさんの視線がこちらへと向く。

「なんで……それはもちろん、旦那様だからです」
「だからさ!」
「だから、です」

 通じない。
 この人とは全く通じ合えない。

「男爵さまとは、年も離れてるんじゃないの?」
「関係ありません」

「男爵さまは、世間でいう素敵な人とは違うじゃん!」
「関係ありません」

「もっと良い人が、いるかもしれないじゃん!」
「それこそ関係ありませんね」

 彼女に問うているのか、果たして自分に問うているのか。
 あたしは、段々区別がつかなくなっていった。

 失礼なことを言っている。
 相手がお貴族さまだってことも分かっている。
 それでも、口が止まらなかった。

「こんな事しでかしてさ、男爵さまに嫌われるって思わないの?」
「それは」

 リセリーナさんが答える前に、あたしの口は勝手に動く。

「嫌われたらどうするの? 好きになっちゃって……結果、選ばれなかったら……どうするの!?」

 あたしは、なんでこんなに必死なんだろう?

「ねぇ……怖く、ないの?」
「ハルネさん」

 あたしは、いつの間にかステッキを強く握りしめていた。
 ……痛いくらいに。

「わたくしは、これも、伝えたはずです」

 彼女の、ただでさえ濃い感情色が、よりいっそう色味を増した。

「わたくしが愛しているのなら、そこに相手の意は関係ないのです」

 感情色に反して、なぜだか彼女の表情は穏やかに見えた。

「だって、好きなのですもの。 それ以外は、考えた事もありません」

 全然、わかんないよ……
 彼女の言葉に、あたしの気力は萎んでいった。

「ねぇ、旦那様。 ……あら」

 困惑と絶望に染まっていた男爵さまの感情色。
 それが今は……

――揺るぎない決意の、トワイライトブラックへと変わっていた。

 温和で弱気な顔立ちの男爵さま。
 その表情が、今は鬼気迫るものへと変貌し、リセリーナさんをキッと睨みつけていた。

「リ、リセリーナ。 いくらキミが愛していると言おうが、や、やっぱり僕には、信じられないんだよ」
「それで、どうなさるおつもりですか。 旦那様」

 ギギギィ、とレイピアの切っ先が床を擦った。

「ひっ……で、でも、嘘とも思えない。 いくら求められても、愛を囁かれても、ぼ、僕にはキミが、理解できないんだ! キミは本当に……ぼ、僕を愛しているのか!?」
「ええ、その困惑されたお顔もステキです。 愛していますわ、旦那様」
「あああぁぁっ……!」

 あくまで穏やかなリセリーナさんとは対照的に、男爵さまは悲痛な声を響かせた。

 そう、さっきから……ううん。

 出会った時から、ずっと、ずぅっと、この夫婦は……
 感情が噛み合ったことがない。

 男爵さまが、震える手で顔を覆う。

「わ、分からない。 ぼ、僕は本当に、分からないんだ。 キミの愛し方が……理解できない」

 絞り出すような声。

「フフ」

 リセリーナさんは微笑むだけだった。

「ぼ、僕はっ!」

 男爵さまが顔を上げる。

「キミの言葉を……愛しているという、その本心を、信じたいんだ……っ!」

 男爵さまは、懐から小さなガラス瓶を取り出した。

 栓を抜き、片手で印を組みながら、中身を宙へと振りまく。
 液体は床へと落ちず、空気中の水分を取り込みながら、みるみる大きな水の塊へと膨れ上がる。

「こ、この、ノクスミア”γ”で……見せてくれリセリーナ! その隠された感情をっ!!」

 彼の目には、もうリセリーナさんしか映っていなかった。
 男爵さまが手を振り下ろすと、水の塊がリセリーナさんの上空に浮かび……

 次の瞬間、それは激しく破裂した。

 大量の水が、リセリーナさんと、正面にいたあたしまで呑み込んだ。

「うっ……」
「つめたっ! なにこれ!?」
「増幅だけじゃない! ”γ”は深層をも引きずり出す!」

 深層? それって……


「さぁ、リセリーナ! キ、キミの愛を、見せてくれ!!」


 うっ……気持ち悪い。
 何これ……?

 ホールで味わったノクスミアとはまるで違う。
 まるで……心の蓋が、外れるような……っ!

 胸の奥へと押し込めていたものが、ぞわぞわと勝手に這い出してくる。
 生理的な嫌悪感に、吐き気すら催した。

 たまらず、あたしはしゃがみこむ。
 湧き出してくる何かを押さえ込むように、身体を丸めた。

 朦朧とした意識で、顔を上げる。

 視界の端に、リセリーナさんが全力で走っているのが見えた。

 男爵さまの方へ。

 ……そう思った。


 でもそれは違っていた。


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