【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―
第77話 ハルネの告白
激しい衝撃。
階段の上から飛び込んできた人影が、私の胸へとぶつかってきた。
とっさに手すりを掴み、階段の中腹で踏みとどまれた。
危ないところだった。
あと一歩遅ければ、転がり落ちていた。
最初は、ハルネだと思った。
だが、目に入った金髪を見て、すぐに違うと気が付いた。
ポタポタと垂れる水滴が、淡い金色の髪を、より鮮やかに輝かせている。
リセリーナだった。
思わず肌が粟立った。
リセリーナに……女性に、しがみつかれている!
「な、何をする貴様! 離せ!」
「離しませんわ。 絶対に」
私の腰の後ろまで腕を回し、がっちりと身体へしがみついている。
な、なんという膂力……
貴族令嬢にあるまじき、その凄まじい力に思わず喉から声が絞り出る。
「……うぐっ……は、離れ、ろっ!」
「…………」
困惑と生理的嫌悪に、さらに肌が粟立った。
なんだ、この力と……妙な香りはっ……!
なぜだか、上手く力を入れる事が出来なかった。
そうだ。 リセリーナがこの場にいるということは……
「……ハ、ハルネはどうしたっ!?」
「さぁ……存じ上げませんわ」
尋常ならざる力で抱き着いているはずなのに、彼女には力んだ様子すらない。
顔も伏せているため、表情も伺えない。
ただ、ひたすらにハルネを心配する気持ちが増していく。
彼女を、一人で行かせてしまった。
ギルトハルトを止めるためとはいえ、仕方ないと割り切る事は出来なかった。
ハルネは一体どうなったんだ?
早く……一刻も早く、彼女の様子を見に行かねばならんのだ!
リセリーナが密着すればするほどに、胸に浮かぶのはハルネのことばかり。
目の前の女への憎悪が増した。
「離せぇっ!!」
「絶対に離しませんわ」
身体を激しく振り回してみても、ビクともしなかった。
「貴様! これは一体、何の真似だっ!」
「わたくし、ふと思いましたの」
「……な、なにをっ」
「旦那様が、一番おつらい顔をなさるのは何かと」
「何の話を……」
顔を上げたリセリーナ。
口元に笑みを浮かべている。
はからずも、左眼の魔眼が、感情の色を映しだした。
――かつてないほどに濃厚な、臙脂色。
なんとおぞましき……欲望。
「それは”嫉妬”ですわ。 旦那様はわたくしを愛している」
リセリーナの瞳に、恍惚の熱が灯った。
気持ち悪くてたまらなかった。
「わたくし達のこの姿を見て、旦那様は何を思うでしょう。 それはきっと……」
顔だけはこちらを向いていた。
しかし、熱っぽく語るその視線が、私と重なる事は無い。
「あああぁぁぁっ!! な、なぜだ! リセリーナァ!」
上方――階上から、大きな叫び声が響いた。
それは、絶望の慟哭。
アルテノット男爵はその場に膝を着き、涙を流しながら、妻へ問いかけていた。
「ど、どうしてっ……やはり、ぼ、僕を、愛してはいなかったのかぁぁっ!!」
――ギュウゥゥ
「ぐぅっ……!」
腰に巻き付くリセリーナの力が、さらに強くなった。
「フフ、フフフ。 ああ…………なんってステキな悲鳴」
頬を上気させ、恍惚に瞳を潤ませるリセリーナ。
男爵の痛み、リセリーナの陶酔。
あまりに噛み合わない感情の奔流を食らい、喉からせり上がってくるものすら感じた。
「この……異常者めが! 離せぇっ!!」
「絶対に離しませんわ」
女性、そしておぞましい狂気。
不快が限界に差しかかろうとした時。
「だめえぇぇぇっ!!」
膝を着いている男爵の横を、苺茶色の髪の乙女が風のように駆け抜けた。
シャンパンベージュのドレスをはためかせながら、獣じみた勢いのまま階段を駆け下りてくる。
胸元へ構えたシールドステッキが、一直線にリセリーナを捉えた。
「きゃあっ!」
「……っ!」
盾ごと突っ込んで来たハルネが、私にしがみついていたリセリーナを、横から吹き飛ばした。
鈍い衝撃音が階段に響く。
リセリーナはそのまま、階下へと階段を転げ落ちていった。
「……ハ、ハルネ!」
よかった……無事だったのか。
そう思う間もなく。
ハルネは手に持ったステッキを放り投げ、私の胸倉を掴んでくる。
「なんで! なんでリセリーナさんとくっついてるのさ! 抱き着いてるのさ! なんでよ! あたしじゃなかったの!?」
「……な、イヤ、違う! これは……」
「あたし達バディじゃなかったの!? 夫婦じゃなかったの!? やっぱりそうなんだ! ヴァルさまは、あたしのこと、そういう風に見てないんだ!」
「違う! なぜそんな事を!」
誤解を解こうとハルネの肩を掴む。
私の襟元を掴む力は、リセリーナに負けず劣らず凄まじかった。
「やっぱりリセリーナさんみたいな綺麗な人がいいんだ! リオーネさんみたいなスタイルの人がいいんだ! ちんちくりんでデブなあたしは……ヴァルさまの隣に、似合わないんだぁ!」
「な、何を言うんだハルネ!」
ハルネの慟哭は止まらない。
「ドレスを着た時、期待したのに! 舞踏会に誘ってくれて、もしかしたらと思った! 妻だって名乗れて、誇らしかった!」
「くっ……聞けっ! ハルネ!」
「なのに……「あたしは奥さんなんだ、やったー!」なんて浮かれてバカみたい! 期待して、ウキウキして、全部あたしの、勘違い……ねぇ、バカだって言ってよ! 同情だって言ってよ!」
顔を上げたハルネの顔は、溢れんばかりの涙で濡れていた。
「同情だなどと……そんな事は思っていない!」
「ウソだ! あたしが、もっと綺麗なら……もっと痩せてたら……もっと可愛かったら……ちゃんとヴァルさまの隣に立てたのに! あたしに「醜い」って、ちゃんと言ってよ!」
左目の魔眼が、無意識に発動する。
彼女の感情色は――見るに堪えないほど、グシャグシャだった。
「ハルネっ!!」
「ひくっ!」
一喝。
ようやくハルネが、私の言葉に反応した。
「キミの言う事は全く違う! どうしてそんな事を言うんだ!」
「だって本当の事じゃないのさ!」
「違うっ!」
「ウソだっ!」
「ウソじゃないっ!」
「ウソだっ! だってあの時だってっ……侯爵さまのお屋敷で、令嬢たちに苛められた時、助けてくれなかったもん!」
「……そ、それは」
「ほらやっぱり!」
慈悲のない事実が、胸を刺した。
あの時、ハルネを一人にしてしまったのは、間違いなく私だった。
「こないだの朝も、あたしの手を取って、祈るばかりで……嬉しかったけれど……思わせぶりな態度ばっか取らないでよ! もっともっと踏み込んできてよかったのに! あたしはいつでも、受け入れたのに!」
……これも、事実だ。
何も、言い返すことは出来なかった。
「魔眼がお揃いで嬉しかったのに! あの夜、特別な絆が出来たって思ったのに! そんな気が無いなら優しくするな! あたしを綺麗だなんてウソつかないでよ! ドレスが似合うなんて言わないでよ! 選んでくれるかもなんて……期待させないでよっ!!」
「ウ、ウソではない!」
「誤魔化さないでよ! なんでヴァルさまはハッキリ言ってくれないの!? あたしばっかり好きになってズルイよ! こんなに好きなのに、こんなに好きなのに! こんなに大好きなのにぃーーっ!!」
「……うっ」
「ああ……違う」
それまでの激しさが嘘のように、ハルネの声から抑揚が消えた。
顔を伏せ、かぶりを振る。
「……違うよ。 ヴァルさまのせいじゃない……あたしから言えば良かったんだ。 そうすれば、ちょっとぐらい、女として見てもらえたかもしれない……」
「……」
ハルネの足から力が抜け、その重みが、重く胸元へと預けられた。
「怖い……怖いんだよぅ」
襟元を掴むハルネの手が、震えているのが伝わった。
「あたしから言えるはずがない……だって選んでくれるはずが無いもん。 言われても怖い……だって、そうじゃなかったら耐えられない。 だったら最初から期待しないんだ。 ……ああ、こんな自分が嫌い。 大嫌い! 言われるのも怖い、伝えるのも怖い……! 誰か、あたしを……助けてよぉっ……!」
「……ハルネ」
「ねぇ、ヴァルさま」
突然、ハルネが顔を上げた。
涙はまだ頬を濡らしている。
けれど、その瞳からは、光が感じられなかった。
「こんなあたしを……嫌いになったでしょ? 嫌いになったって言ってよ。 だってあたしが嫌いなんだもん。 ヴァルさまだって嫌いだよね? ねぇ、そうだよね? 嫌いでしょ? 嫌いだよね? だから……あたしを選ばないって、ちゃんと、言ってよ……?」
いつでも愛らしい、ハルネの琥珀色の瞳。
それが今は、諦めと絶望に濁っていた。
「……でも」
囁くような、掠れた声。
「……好きなの」
力の無い、声。
「……嫌いになってほしい。 好き…………好き」
襟を掴む指が、強張った。
「……選ばないでほしい。 好き……そばにいたい」
滲む――青灰色と、薄紅色。
「……信じたい」
縋るような、琥珀の瞳。
その言葉を最後に、胸元を掴んでいた手から、力が抜けた。
周囲から音が消え、静寂が残った。
ハルネの、あまりに悲痛な心の声に、私は全く動けなかった。
……言わせてしまった。 ……彼女から。
自分から言葉にすると、ついさっき決意したはずだった。
だが……
……何を言えばいい?
……どんな言葉なら、彼女に届く?
そのような迷いは一瞬だった。
ハルネの肩に置いていた手に力が入る。
そして、彼女の背中へ腕を回そうとした。
――刹那。
衝撃を受けた。
反射的に、ハルネを掴もうとした腕が空を切った。
目の前から……ハルネの姿が消えていた。
何が起こったのか、理解ができなかった。
一拍遅れて、階上を見上げる。
するとそこには……
ハルネを肩に担ぎ上げ、階段を駆け上がるルシアンの姿があった。