死病の花嫁は薬商伯爵に溺愛される~大正政略結婚、不遇令嬢の幸福論~
 隣に立つ篤志さんを見上げると、彼もまたホッとしたのか表情を緩めている。
 私も今になって、膝が小さく震えていることに気づいた。
 毅然と対峙していたはずなのに、身体はまだ先ほどまでの緊張を覚えているらしい。

 嵯峨野邸をあとにし、車に乗り込んでからも、私はしばらく口を開くことができなかった。
 気を張っていた反動なのか、とめどなく疲労が押し寄せてくる。

「……よく言い返したな」

 隣に座る篤志さんが静かにつぶやいた。

「正直、俺のほうが頭に血がのぼっていた。だが琴乃は、冷静に相手を説き伏せていたな」
「いえ、無我夢中でした。気がついたら口が勝手に……」

 あの瞬間は、怒りと悲しみで気持ちがぐちゃぐちゃで、余裕なんてまったくなかった。
 なんとかわかってもらおうと、それしか考えていなかったから。

「琴乃」

 篤志さんが、私の震える手にそっと自分の手を重ねた。

「今日はつらい思いをさせてすまなかった。俺のもとへ嫁いだばかりに、こんな目に遭わせることになって……」
「いいえ」

 私はしっかりと首を横に振った。
 車窓の外は、夕暮れの光を浴びた街路樹が赤や橙に染まり始めている。行き交う人々はせわしなく歩き、それぞれの一日を終えようとしていた。
 その何気ない景色を眺めているうちに、ようやく自分の呼吸が落ち着いてくる。
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