死病の花嫁は薬商伯爵に溺愛される~大正政略結婚、不遇令嬢の幸福論~
「……街で、変な噂が流れているのは知っているわ。嫌よね」

 それだけ言うと、千草さんは逃げるように自分の部屋のほうへ歩いていってしまった。
 まだ、心を開いてくれているとまでは言えない。だけど最後のひとことには、これまでにはなかった気遣いのようなものを感じて、私は少しだけ勇気をもらったような気持ちになった。

 私と篤志さんは、嵯峨野邸へ向かうため車に乗り込んだ。
 膝の上に置いた進物の菓子折りを見つめながら、私は静かに息を整える。

「そんなに緊張しなくていい」

 篤志さんが、大きな手を私の手の上に重ねて包んでくれた。

「すみません。何をお話ししようかと頭の中で考えていたら……」
「難しく考えなくても、普段どおりの琴乃でいればいいんだ。嵯峨野伯爵ならわかってくださる」
「……そうですよね」

 無理に取り繕わなくてもいい。私がどんな人間なのか、ありのままを見てもらおう。
 それで判断してもらうしかないのだ。
 だけど、彼の言葉に励まされながらも、心臓の音は一向に落ち着いてくれなかった。

 宴席の日、篤志さんと一緒に初めてあのお屋敷を訪れたときとは、まったく違う緊張感だったのを思い出す。
 あのときは、彼の妻として恥ずかしくない振る舞いができるかどうかという不安が大きかった。
 しかし今日は、自分の出自のせいで、天澤製薬と嵯峨野物産の取引に支障をきたすかもしれないという、もっと重たい不安だ。

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