軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
一軒目の長屋の戸を叩くと、中から小さく返事があった。将臣は静かに戸を開ける。
土間には、白髪の男性が腰を下ろして待っていた。
「ご機嫌はいかがですか」
将臣は診察鞄を脇へ置き、患者の前へ膝をつく。
「先生は軍医さんなのに、毎週休みになると来てくださる。本当にありがたい」
しわだらけの手を擦り合わせながら、老人は穏やかに笑った。
「やっぱり膝が痛くてな。でも、先生の言う通り、動ける範囲で歩いているよ」
そう言って着物の裾を上げると、変形した膝が現れる。
将臣はその膝へそっと手を添え、痛む場所を確かめた。
「痛い時は痛み止めを飲んで過ごしてください。痛みが落ち着いている時は、無理のない範囲で歩きましょう。薬をお渡しします」
診察鞄から薬包を取り出し、老人へ手渡す。
「お代も取らないのは先生くらいだよ」
老人は深く頭を下げ、大切そうに薬を受け取った。
「先生のおかげで、今週も畑へ出られそうだ。ありがたや、ありがたや」
何度も手を合わせる老人を見て、凪は胸が温かくなった。
(本当に、この町の人たちのために働いているのね)
将臣へ視線を向ける。
患者へ向ける眼差しは穏やかで、どこまでも慈しみに満ちていた。
その横顔に、凪の胸が小さく高鳴る。
(軍病院へ向かう時のお顔とは、まるで違う……いい顔をしている)
一軒先で足を止めた将臣は、静かに戸を叩いた。
「次の患者は、流行り病を患っていた女性だ。体調も戻っている頃だと思うが」
中から返事が聞こえ、戸が開く。
その顔を見た瞬間、凪は思わず目を見開いた。
(麒麟堂で火傷の薬を買いに来た、あの娘さんだ!)
手首には古布が巻かれている。隙間からは滲出液がにじみ、布はうっすらと色づいていた。
(治っていない……)
火鉢を押しつけられていた、あの日の光景が脳裏によみがえる。
(また傷つけられたの……?)
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「安藤先生。お待ちしておりました」
娘が頭を下げる。
「おっかちゃん、先生が来たよ」
娘は水を張った桶を脇へ寄せると、床に横になっていた母の背へ手を添え、ゆっくりと起こした。
「……千代。ありがとう」
(この子は、千代さんというんだ)
凪はその横顔から目を離せなかった。
母親の顔色はまだ優れない。それでも、将臣を見ると安心したように微笑んだ。
「先生。だいぶ体が軽くなりました。ごほっ」
胸を押さえ、小さく咳き込む。
「まだ本調子ではありませんね。胸の音も聞かせてください」
将臣は聴診器を当て、静かに呼吸音へ耳を澄ませた。やがて小さく頷き、聴診器を外す。
「呼吸音はだいぶ綺麗になっています。もう少しだけ養生しましょう」
「でも……寝てばかりで、背中が痛くて。ごほっ」
咳き込む母の背を、千代がすぐにさする。
「おっかちゃん、私が働いているんだから。ゆっくり治していけばいいわよ」
(母親のために、逃げずに働いているんだわ)
凪は室内へ視線を巡らせた。
古い長屋だが、隅々まで手入れが行き届いている。寝具も整えられ、湿気や匂いも感じない。
(きちんと暮らしている人だ。なのに……)
胸が痛み、凪は胸元で指をぎゅっと握りしめた。
「先生。寝てばかりで背中がどうも痛くて」
母親が申し訳なさそうに眉を寄せる。
「そうですか。では湿布を……しまった。切らしていました」
将臣が困ったように眉を下げる。
「先生、大丈夫です。薬屋へ走りますので」
千代が立ち上がろうとした、その時だった。
将臣の視線が、古布の巻かれた手首で止まる。
「その傷……炎症を起こしていませんか。診せてください」
静かに手を差し出した。
「……千代、手をどうかしたの? ごほっ」
母親の声に、千代ははっとして手首を隠した。
その動きを目にした将臣の手が、その場で止まる。
部屋に小さな沈黙が落ちた。
凪は思わず、前のめりになった。
「あ、あの……よろしければ、私が湿布を作ります!」
その場にいた全員が驚いたように凪を見た。
将臣だけが、凪と千代を静かに見比べる。
「……作れるのか?」
「裏庭に薬草が生えていました。あの……千代さん。案内していただけますか?」
その言葉に、千代は初めて凪の顔を真正面から見た。何かを思い出したように、目を大きく見開く。
「あの時のお薬屋さん……っ!」
凪は黙って千代を見つめ返した。
千代は迷うように視線を揺らしたあと、小さく頷く。
「……はい。こちらでございます」
それだけ言って立ち上がる。
凪も後に続いた。
二人の背中が部屋を出ていくのを、将臣は何も言わず、静かに見送っていた。