軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
往診の帰り道。
凪の胸は、不思議なほど温かさで満たされていた。
「千代さんとは、知り合いだったのか」
長屋を離れてしばらく歩いた頃、将臣が口を開いた。
「はい。以前、火傷の薬を買いに麒麟堂へ来てくださったんです」
そう答えながら、凪の表情がわずかに曇る。
「あの火傷は……奉公先で故意につけられた傷でした」
「故意に?」
将臣の眉が静かに寄る。
凪は頷いた。
「とても働き者の方でしたから……麒麟堂のお手伝いをお願いできたらと思って。少なくとも、あのお屋敷よりは安心して働けます」
「そうか……凪らしいな」
それは短い言葉だった。けれど、それだけで凪の胸が熱くなる。
「将臣様こそ……千代さんが隠そうとした傷に、すぐ気づいてくださいました。やっぱり、すごいお方です」
凪に真っ直ぐ見つめられ、将臣はドキリとする。照れを隠すように、視線を逸らして首筋へ手を添えた。
しばらく二人の間に静かな沈黙が流れる。
風だけが、優しく吹き抜けていった。
「……昨夜は、言い過ぎた」
ぽつりと将臣が言った。
「すまなかった」
凪は足を止めかける。
「私こそ……勝手に見てしまって……申し訳ありませんでした」
異能のことは、自分から口にしたくない。それでも、将臣を見上げる。
ふと視線が重なった。
二人はどちらからともなく、小さく笑みがこぼれる。
(傷はあっても……この方の瞳は、こんなにも澄んでいる)
凪は心からそう思った。
将臣が歩みを緩め、穏やかな声で呟く。
「お前の……傷を読む力のことを、桐谷から聞いたことがある。まさかとは思っていたが」
──どくんっ
心臓が跳ね上がり、凪は足がすくんで立ち尽くしてしまった。指先が凍りつくように、一瞬で血の気が引くのがわかった。
「知って……おられたのですか……? ……最初から?」
震える声で問いかける凪に、将臣は足を止め、静かに頷いた。
「妹は、その力のせいで苦しんでいると、桐谷が心配していた」
凪は着物の袖の中で、指先を痛いほど握りしめた。息がうまく吸えない。
(私の力を……知っていた……!)
「でもっ、それなのにっ……」
どうしても声が震える。
「それなのにっ、私を迎えてくださったのですか?」
将臣は不思議そうに首を傾げる。
「それが、何か問題か?」
その一言がまっすぐ胸へ届き、凪は言葉を失う。
「結菓子が生まれたのも、その力があったからだろう。俺にとっては、ありがたい力だ」
将臣は遠くを見つめる。
その眼差しは、戦場のどこか遠くを映しているようだった。
疲れ切った身体で口にした、あの結菓子。桐谷が笑って差し出してくれた日のことを思い出していた。
(この力は……ずっと呪いだと思っていたのにっ……!)
凪は胸の奥が、熱く熱く込み上げるのを感じていた。
将臣は気味悪がるでもなく、その力も「凪」というものとして、当たり前に受け止めてくれた。
その事実が、ただ嬉しかった。
将臣がふっと懐かしそうに目を細める。
「桐谷は、陣営の場を和ませる天才だった」
「特に薬草は詳しくてな。似た葉を見分けるのも早かった。皆、感心していたよ」
思い出すように笑う将臣を見て、凪も笑みをこぼした。
二人は初めて、朔也の思い出を悲しみではなく、笑顔で語り合っていた。
屋敷へ戻ると、凪は炊事場へ向かった。
鍋を竈にかけると、不意に手が止まる。
兄様は笑っていた。
将臣も笑っていた。
なのに──あの軍刀の傷は、どうしてあんなにも悲しかったのだろう?
胸の奥に残った小さな引っ掛かりは消えることなく、静かに凪の心を揺らしていた。