軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
「また町へ往診に行っていたのかっ」
すでに日は暮れていた。
二人が帰ってくると、離れの玄関口に将臣の父が仁王立ちで待っていた。
腕を組み、その表情は険しかった。
将臣は父の問いには何も答えず、凪に向かって静かに言う。
「先に中にお入り」
「……はい」
将臣が玄関の扉を開け、凪を庇うように先へ促した。すれ違いざま、憲一の鋭い眼光が凪を射抜く。
(私はまだ……認められてはいないんだ)
胸がぎゅっと痛んだ。
凪を中へ逃がし、ようやく将臣が父と向き合う。
「父上。ご用は何でしょう?」
表情を変えない将臣に、父は苛立たしげに眉を上げた。
「司令部への異動の話は受けるのだろうな」
「…………」
将臣は一瞬だけ、目を逸らした。憲一はそれを見逃さない。
「何を迷う必要がある。お前は、安藤家の長男だぞ。ろくに後ろ盾もない薬屋の娘との婚姻など、どれだけ私が周りに奔走したと思っているんだ」
静かな声だが、重い圧力が場を支配する。
「お前なら、軍医総監も夢ではない。これがどれだけ名誉なことか、わかっているだろう?」
将臣はわずかに眉を寄せ、父を見据えた。
「……私が決めることです」
絞り出すような一言。それが憲一の癪に障り、眉が跳ね上がった。
「戯れの婚姻も、許したわけではないぞっ! これ以上、生意気な真似をするな!」
将臣を指差した手が、かすかに震えていた。
「……」
将臣はそれ以上、何も言わなかった。
代々軍人のこの家で、父に逆らう重みを誰よりも知っているからだ。だが、将臣は静かに一礼すると、そのまま家の中へと足を進めた。
凪は少し離れた場所から、そのやり取りを聞いていた。
父の前では動揺も見せなかった将臣。けれど、廊下を歩くその背中だけは、どこか痛々しく見えた。
凪は、昼間聞いた町の人の声を思い出していた。
『先生は命の恩人です』
『軍ではなく、この町にいてほしい』
将臣は、その言葉を聞いた時も、ほんの少しだけ寂しそうに笑っていた。
(今日も命を救っていた。町の人は、将臣様を必要としている。それなのに──)
憲一との会話を終えた将臣は、そのまま一人、縁側へ出た。
そして、ゆっくり夜空を見上げている。
その横顔には、誰にも見せない迷いが滲んでいた。
(将臣様は……本当は何を望んでいるのでしょう)
凪はそっと歩み寄り、その背中に羽織をかけた。
「今夜は少し、冷えますね」
将臣はそっと羽織の端に触れる。
「そうだな」
そして、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「……凪」
「はい」
「……お前がいてくれてよかった」
「……はい」
凪も隣で静かに空を見上げた。
けれど、二人はまだ知らなかった。
居場所を見つけた今だからこそ、何を捨て、何を守るのか。
その選択を迫られる時が、そこまで迫っていることを。