軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
12話 麒麟堂が壊れる日


 昼下がりの麒麟堂に、客の姿はなかった。
 湯呑みを盆に戻し、翠は源一郎を一瞥する。
 源一郎はゼイゼイと苦しそうに肩で息をしていた。それを見た翠は満足そうな笑みを浮かべ、すぐにしおらしい表情へと戻す。
「良くなりませんわね。何か、お食べになりたいものはありますか?」
「カステラを……甘いものが食べたい」
「わかりましたわ」
 翠は盆を台所へ下げに行った。
 そこでは、朝餉の片付けの洗い物をしているお手伝いの女性がいた。
「千代! カステラを買っておいで」
「は、はい。奥様」
 千代は前掛けをすっと外し、すぐに買い物籠を手にした。目の前を通り過ぎようとした千代に、翠は吐き捨てるように言った。
「安物でいいからね」
「えっ?」
「もったいないでしょう? きっと、もう味なんてわからないでしょうから」
 同情するような哀れみの顔を作りながらも、その下には、滑稽でたまらないと言わんばかりの冷たい笑いが張り付いていた。
 千代はぞっと背筋を凍らせて、逃げるように出て行った。

「母さん、薬を持ってきましたよ」
 艶のある背広を着込んだ俊朗が、紙袋を掲げて入ってきた。
 翠は、ぱっと機嫌よく迎える。
「いつもありがとう! 俊朗さん、本当に助かるわっ!」
 俊朗は店内の薬箪笥を覗いた。
「いつから西洋の薬を売り出すんです?」
「……そのうちよ。今はお得意様にだけ、特別にお売りしているの」
 翠は紙袋を奪うように抱き寄せた。
「ふーん。そう」
 俊朗は興味をすぐに失う。そして、ひらひらと手を振って仕事へと戻っていった。 
 翠は紙袋の中身を、台所の戸棚の奥へ隠した。そして、一枚の用紙を手に取った。
 その瞳はやけに冷たく、歪んでいた。

「ねえ、あなた。今日こそは相談に乗ってくださいませ」
 手には先ほどの用紙が握られていた。それをそっと、帳場の分厚い机に置く。
 源一郎は虚ろな目でそれを見つめた。
「もうすぐ店の改装が始まるわ。西洋雑貨も俊朗に調達の手筈を整えてもらっている。あとは……資金だけなの」
「……契約書? わしは契約を結んだ覚えはない」
 そう言って、手で脇へと押しやった。
 翠は目を丸くし、眉を吊り上げる。一瞬で、額に青筋が立った。けれど、小さく息を吐くと、言い聞かせるように囁いた。
「ねえ、あなた。ここを切り盛りできるお身体ではないのよ? 私の協力がなければ、麒麟堂は──潰れるわ」
 源一郎の筆を走らせる手がぴたりと止まった。そっと筆を置き戻した。
 翠は笑みを隠しきれぬまま、再び契約書を源一郎の前に突きつけた。
「お金を出してくださいな。今日にも着工なんですのよ」
 黙っていた源一郎が、ゆっくりと契約書を手に取った。そして、手に力を込め、勢いよく真っ二つに引き裂いてしまった。
 虚しく破れた紙切れが、床に舞い落ちる。
「あなたっ……!! 何をするのっ⁈」
 翠が血走った目をむき出しにして、怒り散らした。
「まだ、わしは倒れん。縁起でもない真似をするな。それとも……」
 鋭い源一郎の眼光が翠を刺した。
「わしが死ぬのを待っているのか?」
 翠の息が一瞬止まった。しかし次の瞬間には、穏やかな笑みを貼りつけていた。
「……何を気弱なことをおっしゃるの? 今だって、お薬で治そうと一緒に頑張っているではありませんか」
 そっと、源一郎の手に自分の手を重ねた。その指先は、源一郎が驚くほど冷たかった。









 






 
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