軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜



「嘘でしょう……。なぜ、暖簾が出ていないの?」
 数ヶ月ぶりに、千代と共に麒麟堂にやってきた凪は、店の軒下で顔色を失い立ち尽くした。吸い込まれるように店内へと踏み入れた瞬間、言葉を完全に失った。
 かつて、凪が薬研で薬を作っていた思い出の場所──奥座敷の戸や壁が、無惨にも取り払われていた。
 今も目の前で、大工たちが大きな音を立てて作業を続けている。
「やめてくださいっ! その部屋は、大切な場所なんです!」
 勢いのまま、凪は大工に駆け寄り懇願した。
「そんなこと言われてもねえ。契約書は交わしているし、頼んだのは麒麟堂さんでしょう?」
「頼んでなどいません! いますぐ、中止してくださいっ!」

「おやめなさい!!」
 凪の声を掻き消すように、甲高い怒声が響いた。
 千代と凪が、思わず肩を跳ねさせて振り返る。
「お義母様! 麒麟堂を壊すのはおやめください!」
 カツンカツンとハイヒールの不快な音を鳴らし、翠がやってくる。
「凪さんは、もう嫁に出た身でしょう? 余計な口を挟むのはおやめになって」
 静かに、だが、気圧すように言い返した。
「それより、お父様のお身体を心配なさったらどう? 凪さんは、麒麟堂だけが大事なの?」
「違いますっ。父上は……どこですか!」
 凪の心臓がいつもより速く打ち、息が浅く、短くなる。

「父上!!」
 凪は廊下を走り、勢いよく襖を開けた。薄暗い室内で、父が背を丸め床に座っていた。
「凪……すまない。ここ二日は体調が悪くて、どうにも動けんでな。ごほっごほっ」
 喘鳴の奥で、湿った水音が小さく聞こえる。
 凪は駆け寄り、苦しそうに咳き込む父の背中を無我夢中でさすった。
「翠が勝手な真似を……あいつはわしの言うことを聞かんのだ」
「父上の体調も心配です。本当に医者に診てもらっているのですか?」
「失礼なことを言わないでちょうだい」
 いつの間にか背後に立っていた翠が、冷ややかに割って入る。
「毎週、往診に来ていただいているのよ。先生も『たちの悪い喘息だから、気長に治療するしかない』と仰っているわ。ねえ、あなた」
「……ああ。だから凪。お前は心配するな。ここはわしが仕切る」
「父上……」
 凪は泣きそうになる。
 すると突然、翠の表情が不気味なほど和らいだ。
「そうだわ。凪さん。お茶でもいかが? 嫁ぎ先の積もる話もあるでしょう?」
「茶など……要りません!」
 きっぱりと断ると、翠はあからさまに不機嫌な顔を作った。取り繕うことすらやめ、凪に言った。
「なら、凪さんに改装費用を用立て欲しいのよ。お偉い軍医様に嫁いだのだから、多少は融通できるでしょう?」
「父はまだ店に立つとおっしゃっています! 改装の必要はありません!」
「凪さん、頭を冷やしなさい。これは麒麟堂を守るためよ。もっと先を見ないと、いつかここも潰れるわ」
「……援助なんて、絶対にできません!」
 突っぱねる凪を見て、翠の顔が般若のように醜く歪んだ。
「なら……出ていきなさい!! 親不孝者がっ!」
「きゃっ、やめて! 離してくださいっ!」
 強引に腕を掴まれ、背中を押された凪は、外へと追い出されてしまった。
「援助しないなら、二度とここの敷居をまたがないで!」
 ガシャン!と激しい音を立て、翠は麒麟堂の戸を力任せに閉ざしてしまった。

「千代! 今後、あの子を絶対にこの家に入れないで!」
 翠は苛立ちを露わにし、ハイヒールの刺さるような音を響かせて店の奥へと消えていった。
 千代は震える両手を強く組み、唇を噛み締めていた。けれど、決して頷くことはしなかった。

 翠は自室へ入ると、袖机の引き出しを乱暴に引っ張り出した。
(ケチな夫は、お金を出してくれていない。継子も役に立たない。なら、仕方ない)
 引き出しの奥から取り出したのは、一枚の怪しいチラシ。
 そこには『無担保融資。御用立ていたします』と高利貸しの怪しい文句が踊っていた。
(遅かれ早かれ、あの人の財産は、全て私だけのものになる)
「時間の問題だもの。善は急げ、ね」
 翠は口の端を吊り上げ、思い切り高笑いした。





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