軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
凪は涙を堪えながら、必死に帰路についた。
(麒麟堂は、どうなるの? あそこは、私の原点なのに!)
涙が溢れそうになる。
「父上は……私の助けを必要としていないみたいだった」
いらない子──その呪縛が凪の胸を押し潰すように、強く締め付けた。
玄関を開けると、将臣の母が待っていた。
手に抱える竹ザルには、ふかし芋が山盛りだった。
「凪さん! 帰ってきましたね。ちょうどよかった。一緒に食べましょう」
母は竹ザルをかざして微笑んだ。
(ああ──私を待ってくれる人がいるんだ……)
ついに、凪の目から涙が一筋、こぼれ落ちた。
「あらあら……なかなか来れなくてごめんなさいね。でも安心して。凪さんはうちの大切な人間なのだからね」
母は凪の背中を、優しくさすった。
冷え切っていた凪の心が、温かさに包まれていく。
(私は、きちんと受け入れられている。だから……泣かない!)
着物の袖で、急いで涙を拭い去った。
「……私も、ふかし芋が食べたいです」
「ふふ。食べれば元気いっぱいになるわ」
二人は目を合わせると、自然と笑みがこぼれ落ちた。
「母上、来られていたのですか」
ちょうど帰ってきた将臣が、背後から声をかけてきた。
「あら、将臣。お帰りなさい」
母は含み笑いをする。
「なんですか。そのお顔は」
将臣は軍帽を脱ぎながら、不思議そうに尋ねた。
「将臣は凪さんに、大切にされているのね」
凪も将臣も、思いがけない言葉に目を丸くした。
母はくるりと振り返り、炊事場の棚を指差した。
そこには、凪が調合した薬が入った木箱が、整然と並んでいた。箱の表面には、丁寧な文字で薬名が貼り付けられている。
将臣が鞄を脇に置き、吸い寄せられるように歩み寄った。
「これは……なんだ?」
将臣は『ゲンノショウコ』と書かれた木箱を指差した。
凪は照れくさそうに笑う。
「将臣様が、胃がお疲れの時にお出ししようと思っているお茶です。こちらのカミツレは頭痛の時に。それから、こちらは、先日お約束した傷跡用の軟膏です」
将臣は息を飲み、低く呟いた。
「……全部、私のためなのか?」
「ええ。将臣さまはお忙しいので。少しでもお身体が楽になっていただければと思って」
そう答える凪の指先を、将臣の視線が捉えた。水仕事と薬草の仕込みで、荒れてアカギレのできた、指先。
(こんなになるまで……)
「凪さんがいれば、将臣が体調を崩す心配はないわね」
「薬草のことは、兄から教え込まれました。私には、これくらいしかできないんです」
「凪さんだから、出来ることなのよ」
母はそう言って竹ザルを棚に乗せると、凪の両手を握ってくれた。
そのぬくもりは安心する温かさだった。
凪は誇らしそうに、小さく小さく頷いた。
「では、縁側でお芋を食べましょう。さっ、将臣も着替えていらっしゃい」
母が凪の背に手を添え、縁側へと連れていってしまった。
静まり返った炊事場で、将臣は薬の木箱から目を離せずにいた。
(……私のために、そこまで)
胸が締め付けられ、苦しくなる。
将臣は一つ一つ木箱を撫でていく。
「ここまでされる資格は……まだない」
将臣は一つの木箱の蓋をそっと開け、立ち上る薬草の香りを深く吸い込んだ。そして自嘲気味に、切なく小さく笑う。
「薬草まで……桐谷の匂いがする」
そして、固く強く目を閉じた。
凪は、何も知らずに自分を信じている。
(逃げ続けるわけにはいかない。それなのに……)
将臣は唇を固く閉じ、かすかに震える指先を、痛々しい頬の傷へと強く押し付けていた。